誰もが避けられない”臨終“の間際、人は実に不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導き出した幸せに逝く方法を赤裸々に明かしたエッセイ――『臨終医のないしょ話』(志賀貢著)
年をとり、急にこれまでと違う人のようになってしまった…
患者のFさんは、今年79歳になります。1年ほど前に軽い脳梗塞を患い、左半身に麻痺が残りました。しかし、その後のリハビリテーションなどのおかげで、麻痺の程度は軽くなり、一人で散歩に出かけることくらいはできるようになりました。
毎日朝食が終わると、一人で杖も持たずに近くの公園まで散策に出かけます。
ところが、この散策から帰宅したFさんの行動が奥さんにとっては悩みの種になっているのです。
帰宅して玄関を開けたFさんは、いきなり下駄箱の中を点検し、座敷に上がると押入れを開けてその中を隅々まで調べてから、大声でこう叫ぶのです。
「今、男が来ていただろう」
「…………」
「俺にはちゃんとわかってるんだ。今、茶の間に座っていたのは杉山だ。お前、まだあいつと付き合ってるのか。この浮気女め」
そういう夫の声は絶叫に近いのです。奥さんは近所に聞こえはしないかと、冷や冷やして様子を見ているのですが、近ごろでは止めようがありません。ただただ、夫の気持ちが落ち着くまでじっと耐えているしかないのです。
これが毎日のように繰り返されるのですから、たまりません。思い余って脳梗塞を起こして入院した主治医に相談をしたこともあります。
その医師は、「少しまだらボケが入っていて、それに嫉妬妄想が加わっているかもしれませんね」と言って認知症の薬を処方してくれました。でも、夫は絶対に薬には手をつけようとしません。
「お前、俺を早く殺して杉山をここに連れ込む気だろう。それだけは許さんぞ。たとえ死んでも、お前たちを呪ってやる」
薬は飲もうとしない、人の話には耳を貸さない、散策に見えたのはどうやら徘徊らしい、そう思うと奥さんは憂鬱で仕方がありません。
しかし、このとき奥さんは、この夫の変化が、私の言う「お迎え現象」の一つになるかもしれないとは知る由もありませんでした。
死期迫る夫に、60年前のあの夜の記憶が蘇った
夫の認知症はどうにかしないと二人の生活が破たんを来たす、と思い悩んだ奥さんは、心療内科を訪ねました。そのときに担当した医師から、意外な質問を受けました。
「奥さん、その杉山という人に思い当たることは、何かありませんか」
「若いころお付き合いしていた方です」
奥さんは、目を遠くに向けて60年以上昔のことを思い出しながら、医師に打ち明けました。
「新婚当時、夫は夜二人だけになると、昔どんな男性と恋に落ちたのか、としつこく聞いてきました。最初のころは笑って相手にしませんでしたが、そのうちあまりの執拗な追及についつい私もしゃべってしまいました。
当時は私もまだ若かったから、付き合っていた男性は一人や二人いましたが、それぐらいのことはわかってくれると思いました。一人は初恋の人で文通をするくらいのお付き合いでしたが、杉山さんという方とは将来の結婚を意識して1年くらい付き合ったでしょうか。それも正直に打ち明けました。
黙って聞いていた夫は、自分にも結婚するまで付き合った女性が二人や三人はいたから、それはかまわない、これからは過去のことは忘れて二人だけの人生をしっかり歩んでいこう、と何かすべてが吹っ切れたような顔をして大きく頷ずいたものでした。
それからというもの、夫は杉山という名前を口にすることもありませんでした。ところが、脳梗塞を患って家に帰ってきてから、急にその60年前の杉山さんのことを口にするようになったのです」
「奥さん、それだ!」
カルテにペンを走らせていた医師は、ペンを机の上に置くとポンと膝を一つ叩いて奥さんの顔を見つめました。
「それは明らかに嫉妬妄想です。恐らくご主人は軽い認知症が始まっているのかもしれません。そして昔のことを思い出したのでしょう。
同じような悩みを抱えて診察に見える方によく言うのですが、結婚したのだから過去のことはすべて話しても許してもらえるだろう、と考えるのは間違いです。
でも、もう話してしまったことは仕方がないですね。後はご主人の脳裏から奥さんの60年前の過去が消えるのを待つしかないと思います」
「でも先生、毎日のように出かけて帰ってくると、家の部屋という部屋を探し回り、押入れも開け放し、下駄箱まで男物の靴がないかどうかを調べて、自分の靴をこれは杉山の靴だと言い張る夫の姿を見ていると悲しくなります。なんとか今の医学の力で夫を正常な精神状態に戻してほしいのです」
「奥さんの悩みはよくわかります。多分、薬をお出ししてもご主人はその薬を口にすることはないと思います。でも、ご一緒にカウンセリングを受けることは有効だと思います。うちにはそうした症例に何度も出会って治療した経験のあるベテランのカウンセラーもいますから、一度連れて見えてください。どこまでご主人の嫉妬が収まるかやってみましょう」
奥さんは、よろしくお願いしますと頭を下げ家に戻りました。
嫉妬妄想は消えても男の本能は消えなかった
夫が部屋中を男がいるのではないか、と探し回る行為は、意外な結末を迎えることになりました。脳梗塞の再発作で、私のところに入院してくることになったのです。
脳梗塞は再発を繰り返すたびに、脳の血管の損傷が進みますから、記憶や精神状態などに大きな影響を及ぼすことになります。
ご主人は、ベッド上の生活がそれから先長く続くことになりました。毎日のように奥さんの顔を見ても、もうご主人の口から杉山という、奥さんのかつての恋人の名前が口をついて出ることはなくなりました。
「でも先生、情報提供書にある嫉妬妄想や徘徊はまったく見られなくなったみたいですけど、性欲の本能だけはどうも相変わらずのようですよ」
長坂師長はそう言って顔を曇らせました。
「若いころから、よほど男性ホルモンの働きが活発な方なのでしょうか。それがこの年になっても性欲中枢を刺激しているのでしょうかね」
「いやぁ、どうだろう。男性の性欲を盛んにするのは、アンドロゲンという男性ホルモンのうちのテストステロンというホルモンということになっているけど、80歳近くなってそのホルモンが、性欲中枢やその他、精力に大きな力を発揮しているとはとても思えない」
そう言って私は首をかしげました。
「先生はどうなんですか。先生のところには、けっこう性に関する取材が雑誌社から多いみたいですが……」
師長はそう言ってにやりと笑いました。
「それも私の仕事のうちだから、仕方がないけれど、だからといって私自身が精力旺盛だなんて考えてもらっちゃ困るよ」
そう言って師長を睨みつけると、
「そうかしら?」
とそれ以上は追及せずに、Fさんの入院後の様子を語りました。
「一度院長からも注意してほしいのですが、みんなおむつ交換や体の清拭をするのを嫌がるんです。とにかく口は大人しいのですが、手が達者なんです。
胸と言わず足と言わずお尻と言わず、本当に見境なく触りまくるんです。そんな姿を見ていると、男の人は死ぬまでスケベなのかしら、ともう憂鬱になってきます」
「まぁ、それは迷惑をかけているようだね。でも、相手は脳梗塞の再発が原因で認知が入ってる老人だからね。いくら私が注意しても止まらないかもしれないよ。
あまりいたずらが過ぎるようなら、処置をするときに抑制(医療処置上、必要と認められる手足など身体の固定)をかけるしかないかもしれないね」
「そうですか。先生はやはり男なんですね。私たちが被害に遭うことよりも、患者さんの本能のほうが大切みたいですものね」
「師長、そう皮肉を言わないで。相手は重症な患者だよ。そう長くは生きられないと思うから、“お迎え現象”と思って少し大目に見てくれないかな」
と私が諭すように言うと、師長は仕方がないという顔で小さく頷きました。
それから1カ月後、Fさんは肺炎が元で息を引き取りました。
最後までベッド際でご主人を看取った奥さんは、たとえどんなに嫉妬してもかまわないから、もう少し長生きをしてほしかった、とさめざめと泣いていました。
その姿を見ていると、ずいぶん夫の嫉妬妄想で苦しんだようですが、それも「お迎え現象」としての妻への一つのメッセージであり、仲の良い夫婦だったのだということがわかって、私は内心救われるような気持ちになりました。
臨終医のないしょ話
誰もが避けられない<臨終>の間際、人は摩訶不可思議な現象に遭遇する――これまで数千人を看取った医師が、そんな数々の臨終にまつわる奇譚と、50年の臨床経験から導いた幸せに逝く方法を赤裸々に明かします。