「貧乏な人とは、少ししか物をもっていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領は2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の「持続可能な開発会議(Rio+20)」のスピーチで「世界で最も貧しい大統領」として世界的に有名になりました。
そんなムヒカ前大統領の生活を長年支え、共に「持たない暮らし」を実践する妻ルシア・トポランスキーさんに有川真由美さんが取材しました。
テーマは「幸せに生きるために必要なもの」。
その取材をまとめた『質素であることは、自由であること』(幻冬舎より発売中)より
幸せになれる理由、なれない理由について紹介します。
ゆたかになっても幸せにはなれない
「生きる意味をもちなさい。それは、それぞれが自分で見つけるもの」というルシアさんの言葉によって、幸せになれる理由、幸せになれない理由の謎が解けたようだった。
「生きる意味ってなんだろう?」
私たちは、人生のどこかで、そんな根拠のない問いをもつことがある。
私は、20代のころ、朝早くから深夜まで仕事をし、帰宅して寝るだけの生活を送っていたとき、「生きるために仕事をしているのか。仕事をするために生きているのか」「なんのために生きているんだろう」と、ふと考えては、ため息をついた。
あのころは、人生とは、とかく辛く苦しいものであると思い込んでいて、幸せは、はるか遠いところにあった。会社は急成長していて、たくさんの売上があり、そこそこの収入を得ていたにもかかわらず、幸せを感じる余裕がなかった。
ただ、「ダメな人間だと思われたくない」「無職にはなりたくない」「人に迷惑をかけたくない」というような後ろ向きな理由が、消えてなくなりそうなモチベーションをなんとか支えていた。
「生きる意味なんてもたなくて、いいじゃないか」
「そもそも、生きていることに、意味なんてない」
「ただ、生きているだけでいいのでは」
そんなふうに考える人もいるかもしれない。
でも、“自分自身”の生きる意味をもたなかったら、私たちは無意識のうちに、生き方を、なにかに依存してしまうのではないだろうか。「会社がいうことに従う」「みんながそうするから、私も」と流されるように。そんなふうに、いつもなにかにコントロールされて生きていると、時間ができたとき、会社から外に放り出されたときに、なにをやっていいか、わからなくなってしまう。
戦前や戦中であれば、国家や地縁、血縁によって、なかば強制的に価値観や役割を与えられていた。戦後は、経済成長によって、だれもが家をもち、車をもち、家電製品をもつ……という新しい幸福感に、国民全体が歓喜した。
それはそれで幸せだったのかもしれない。
そして、いま、私たちは、経済的なゆたかさも自由も手に入れた時代にもかかわらず、ぼんやりとした“まわりの空気”といったものにコントロールされている。真面目さや忠誠心のある国民性はいいことだが、方向をまちがうと、ただそれが搾取されてしまうことにもなる。
まわりに迎合して、ちいさいことから大きいことまで、社会の枠から外れないように生きていたら、一人ひとりが幸せになれないのは、あたりまえではないか。
私は、30代後半になってから、やっと自分の人生を歩き始めた。「やりたいことはなんでもやってやろう」と、世界をぐるりと一周したとき、貧しい国の人びとのほうが、たくさんの子どもをもち、ゆたかで自由な時間をもち、弾けるような笑顔のなかで生きていることに愕然とした。富める国のほうが、犯罪や自殺が多くなり、心と体の健康が損なわれていることに、激しい矛盾を覚えた。
私たちは、経済的にゆたかになるほど、失ってきたものがあるはずだ。
働くことばかりを優先して、自分の時間がなくなること。
出費がなにかと増えて、経済的に苦しくなること。
便利なものに依存して、生きる力が失われていくこと。
人とのつながりが希薄になり、子どもからお年寄りまで孤独になること……。
おかしなことだ。がんばればがんばるほど、私たちは、幸せから遠ざかっている。?それらの大きな理由は、経済社会の与える意味に従って、押し流されるように生きてきたからではないのか。
だから、ルシアさんは、「日本人は、もっと自分の人生を生きたほうがいい」と言いたかったのではないか。
私たちには、“それぞれ”が幸せになる道があると。
それを、「生きる意味」といったのだろう。
人生の意味は、神様が与えてくれるものでも、社会が与えてくれるものでもない。私たちが、自分自身に与えるものなのだ。