「貧乏な人とは、少ししか物をもっていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領は2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の「持続可能な開発会議(Rio+20)」のスピーチで「世界で最も貧しい大統領」として世界的に有名になりました。
そんなムヒカ前大統領の生活を長年支え、共に「持たない暮らし」を実践する妻ルシア・トポランスキーさんに有川真由美さんが取材しました。
テーマは「幸せに生きるために必要なもの」。
その取材をまとめた『質素であることは、自由であること』(幻冬舎より発売中)より
「生きる意味」の見つけ方について紹介します。
「生きる意味」はだれでも見つけられる
「生きる意味」とは、特別に考え出すものでもなく、特別な意味づけをするものでもなく、「ただ、やりたいからやる」という子どもが遊びに熱中するような正直な気持ちが、いちばん大きい「生きる意味」なのかもしれないと思う。
「やりたいことがある」というのは、毎日の生活を支えてくれる。
野球少年が「どうしても、甲子園に行きたい」と日夜、練習すること。
画家が「自分の最高傑作を描きたい」と作品づくりにのめり込むこと。
お母さんが「家族のうれしそうな笑顔がみたい」と料理をつくること。
高齢者が「ボランティアが楽しい」と元気に出かけていくこと……。
生きる意味とは、人間の“欲望”であり、“生きがい”でもある。やっていることが、自分にとってのよろこびだから、自然に体が動いてしまうのである。
きっと、だれもが、そんなエネルギーがあふれてくる“種”のようなものをもっている。「やりたいことがない」という人も、なにかしら動いていれば、その種を発見することができるはずだ。
「~したい」が人生を変える
ルシアさんは、こんなことも言った。
「生きる意味をもちなさい。それによって、人はときに最高になるし、ときに最低にもなるのよ」
それは、これまで最高にも、最低にもなった人たちを見てきた経験からの言葉だったのかもしれないし、ルシアさんのうかがい知れない経験からくるものだったのかもしれない。
「~したいから、生きている」と意味づけすることは、無意味なことだと思うかもしれない。
でも、自分の人生に、どんな意味をもたせるのかで、“いま”の心持ちがかわり、行動が変わってくる。生きるエネルギーが変わってくる。
生きる意味をもつことは、夢や目標を叶えることよりも、「いまを生きること」「いまの自分をつくること」のほうが、より大きな意義があるのではないか。
私たちは、漠然と「これは、なんのためになるのか」「自分がここにいる意味はなんなのか?」と、意味を探して生きているものだ。
私は物書きになろうと上京してきたとき、当然のことながら、仕事はそんなすぐには得られず、数年間は工場での組み立て作業や、テレフォンアポインターや、居酒屋のウェイトレスなど日雇いバイトをして暮らしていた。
それらはすべて、物書きになるための生活を支えるものであり、たぶん、そのうち、エッセイのネタになるだろうと思ったから、肉体的にきつい仕事であっても、少々キツいことを言われても、俄然、張り切って働いた。
あのとき、なんの目的もなく生きていたら、おそらくどこかの場所に流されていただろう。
「やりたいことをやって生きたい。なんとしてでも物書きになって、この場所から抜け出してやる」という希望が、エネルギーのみなもとになっていた。
おそらく私が、「素敵な人と結婚して、子どもをもちたい」と思って生きていたら、そんな行動をして、そんな状況になっていたかもしれないし、「田舎で畑を耕して、自然と触れあいながら暮らしたい」と、そこによろこびを感じていたら、そんな環境のなかで生きていただろう。
私たちは、自分が思った通りの人になる。
だからこそ、自分の心に忠実な“生きる意味”を見つける必要があるのだ。
本能のままに生きている動物や、植物などの自然であれば、生きる意味なんていらないだろう。命があるだけですでに、自分を生かし、まわりを生かすための、最高にうつくしい形だからだ。自然の流れのなかでその役割もできていく。
しかし、人間は社会的な生き物であり、本能だけで生きてはいない。
私たちが、どんな人生を送るかは、私たちの“心”が決め、自分をどんなふうに扱ったのかが、“自分”になっていく。