「貧乏な人とは、少ししか物をもっていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領は2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の「持続可能な開発会議(Rio+20)」のスピーチで「世界で最も貧しい大統領」として世界的に有名になりました。
そんなムヒカ前大統領の生活を長年支え、共に「持たない暮らし」を実践する妻ルシア・トポランスキーさんに有川真由美さんが取材しました。
テーマは「幸せに生きるために必要なもの」。
その取材をまとめた『質素であることは、自由であること』(幻冬舎より発売中)より
「足りる」が人生を変えることについて紹介します。
「これ“で”いい」ではなく、「これ“が”いい」
「足るを知る者は富む」、つまり、「満足することを知っている者は、心ゆたかに生きられる」ということは、日本でも長い間、言われてきたことだ。
物欲や金銭欲、権力欲などが際限なくあることや、利己的であることを恥とし、己を律すること、他人を思いやることを美徳としてきた。
桃山時代の千利休は、それまでの権威を誇る豪華な茶器や茶室を使うのではなく、国産の道具で、山里をイメージした簡素な茶室を好み、客人をもてなして共にお茶を楽しむという精神性を大事にした。
大きな戦争もなく、海外からの影響をそれほど受けなかった江戸時代は、文化が一般の人びとに広がった。人口や経済はゼロ成長であったのにもかかわらず、社会は活気があり、芝居、絵画、小説など、さまざまな文化が深まった。士農工商の身分を超えて学問を教え合ったり、一緒に、踊りや楽器、川柳など習い事をしたりした。人びとの営みは、お金を儲けることよりも、「人がよろこんでくれること」を楽しみに行われていたという。
かつての日本人は精神性を重んじて、社会をつくることができた。「足るを知る」というのは、「欲張らずに、ほどほどのところで満足しなさい」という消極的な意味ではない。「これ“で”いい」ではなく、「これ“が”いい」のだと、自分がもっているものと、やっていることに満足と誇りをもった生き方なのだ。
ウルグアイも「もっているものを大切にする」という精神がある国だ。
街を歩くと、20世紀初頭に建てられた建築物が主役のように生かされている。
ワールドカップ第1回が開かれたエスタディオ・センテナリオは、いまはサッカー競技だけでなく、小学校としても使われている。
ガウチョ(カウボーイ)たちは、義理堅くて勇敢な武士道と共通の精神をもっていて、だれからも尊敬されている。
ガウチョに会うと、その真剣で丁寧な仕事ぶりに感動してしまう。使っているナイフや馬具、楽器、ベルトなどは、代々大事に受け継いできたもので、新しいものはあまり見かけない。
さまざまな国を旅して魅力的だと思うのは、自分たちのもっているものを大事にして、誇り高く生きている人びとだ。国際化とは、安易に近代化に合わせることではなく、お互いにもっているものを認めながら、生かし合っていくことなのだと思う。
これは、身近な人間関係にも当てはまるのかもしれない。
まわりに流されず、自分らしく生きている人は、魅力的で、見ていて気持ちがいい。ただ迎合しようとするのではなく、お互いがもっているものに敬意を払い、できることで協力していけば、仕事の関係も、夫婦の関係、友人や地域との関係も、強いチームワークになっていくはずだ。
「まず自分がどんな人間であるかを知らなければいけなくて、そして自分に正直でなければならない」と言ったルシアさんのもつ誇り高いオーラは、つねに自分らしく生きてきた証のように感じる。その生きる姿勢は、とても真剣で勇敢であるけれども、「どこまで行けるのか」と人生のゲームを夢中になって楽しんでいるようにも見える。
私たちは、自分に与えられたカードでじゅうぶん人生を闘っていけるし、じゅうぶんゲームを楽しめるのだ。