2020年、高齢者が国民の3割を超え、社会保障費は過去最高を更新。
破綻寸前の日本政府は「七十歳死亡法」を強行採決する!
長寿は不幸の種なのか? 垣谷美雨さんによる、すぐそこに迫る現実を描いた衝撃作「七十歳死亡法案」を、5回にわたって公開します! 第4回は、義母の世話に嫁・東洋子がストレスギリギリの状態に追い込まれます。
「そんな……降圧剤を飲んでらっしゃるから大丈夫ではないかと……」
「私を薬漬けにする気?」
お義母さんが毒舌になる日は、自分の心にも悪魔が忍び寄ってくる。
「腰は痛いし目は霞むし、つらいわあ。早く死にたい」
「お義母さん……」
死にたいというお義母さんの言葉を聞くたびに、強烈な空しさに襲われる。
朝から晩まで、いや、夜中まで世話をしている自分が、まるで悪いことでもしているみたいだ。一生懸命やればやるほど裏目に出る。自分はいったい誰のために頑張っているのだろう。
──東洋子さんのおかげで、こんなに長生きできて幸せよ。ありがとう。
こう言ってくれた時期もあったというのに……。
自分も高齢になったとき、お義母さんのように我儘放題を言い、息子の嫁を困らせるような老人になるのだろうか。いや、自分は絶対にそうはならない。なりたくない。
あと十五年で自分は七十歳。
若い人にとっての十五年は長いかもしれないけど、五十代の自分は、それがあっという間だと知っている。歳を重ねると、時の流れの速さに慄然として、立ち竦んでしまうことがある。「私もこの前まで学生だったのに」などと言おうものなら、桃佳の失笑を買うが、決して冗談で言っているわけではない。
たった十五年……。
ああ自由になりたい。
明日からでも、いや、今すぐにでも。
どうすれば自由になれる?
ここを抜け出すしかない。
つまり、家出?
それはつまり……離婚?
でも、ひとりで暮らすにはお金が要る。
どうすればいい?
お金……お金!
次の瞬間、いきなりお義母さんの部屋を飛び出していた。
廊下を走る。
「東洋子さん、なんなの急に、どうしたのよ」
お義母さんの声が追いかけてくる。「まだ腰が痛いのよぅ。ねえ東洋子さあん、もっと揉んでくれないとぉ、困るじゃないのぉ」
二階に駆け上がり、寝室にある桐の和ダンスの引出しを開けた。
結婚するときに実家の母が作ってくれた着物が入っている。畳紙ごと持ち上げ、腕を差し入れてまさぐると、封筒に突き当たった。中に五十万円が入っている。
お義母さんの介護を始めて数ヶ月経ったころから、なにもかも捨てて家を出たいという衝動的な気持ちをうまく抑えられない日があった。そんな時期、家出する費用として、夫の給料から少しずつ抜き取って貯めたのだった。いざとなればへそくりがあると思うだけで気分が落ち着いた。しかし今になって考えてみると、たったの五十万円でどうやって新生活を始めるつもりだったのかが不思議だ。
いちばん上の小さな引出しを開け、夫名義の預金通帳を取り出す。
家を買わずに済んだおかげか、結構な額が貯まっている。今までの大きな出費といえば、筆頭にくるのが教育費で、その次は屋根の葺き替えと水周りのリフォームくらいなものだ。
介護が終れば自由になれる
早いとこ預金を引き出しておこう。
夫名義のキャッシュカードをエプロンのポケットに忍ばせる。
大切なのは、家出を計画していることを誰にも感づかれないことだ。自分がこの家からいなくなったらみんなが困るのは目に見えている。
だって、誰がお義母さんを介護する?
きっと夫も義姉妹も戦々恐々とし、どんな手を使ってでも嫁の家出を食い止めようとするだろう。そしてそれは簡単にできる。嫁にお金を渡さなければいいのだ。
つまり、決行の日までは絶対に怪しまれないようにしなければならない。
「東洋子!」
階下からのお義母さんの金切り声で、はっと我に返った。
私……どうかしてる。
あと二年で自由の身になれるのに、今まで築いてきた家庭を壊すなんて……。
それもこれも、お義母さんのせいだ。本当に腹が立つ。
いや違う。違うそれは。
最も苦しんでいるのはお義母さんなのだ。あと二年と人生を区切られてしまった人に、残された時間を明るく生きろなんて、土台無理な話だ。
それに比べて自分には未来がある。たった十五年とはいうものの、お義母さんが亡くなったあとは天下晴れてこの家でのびのびできる。お義母さんの部屋を客間に戻し、家全体をリフォームしよう。気兼ねせずに友だちを呼ぶことだってできる。
そんな嫁の魂胆を、もしかしたらお義母さんは敏感に察しているのかもしれない。だから、最近ますます機嫌が悪くなったのか。
キャッシュカードと五十万円の入った封筒を慎重にタンスに戻してから、階段を駆け下りた。
「お義母さん、お待たせしてすみません」
「いったいどうしたっていうのよ。いきなり二階に駆け上がったりして」
耳が遠いと言う割には、ちゃんと足音まで聞こえているらしい。
「静夫さんが暖房をつけっぱなしで会社に行ったんじゃないかと、ふと心配になりまして」
「やあね、しーくんたら。電気代がもったいないじゃないの」
お義母さんは、五十八歳にもなる息子のことをいまだにしーくんと呼ぶ。
「私もそう思って……だから慌てて二階に上がってみたんですが、エアコンはついていませんでした」
「おっちょこちょいね。なにごとかと思うじゃないの」
そう言いながら、うつ伏せになって目を閉じる。「もう少し左よ、もっと力を入れて」
ほとんど陽に当たっていないせいか、うなじが青白い。簡単に絞め殺すことができそうだった。
※この連載は、『七十歳死亡法案可決』p.8~の試し読みです。続きは、ぜひ書籍をお手にとってお楽しみください!