2020年、高齢者が国民の3割を超え、社会保障費は過去最高を更新。
破綻寸前の日本政府は「七十歳死亡法」を強行採決する!
長寿は不幸の種なのか? 垣谷美雨さんによる、すぐそこに迫る現実を描いた衝撃作「七十歳死亡法案」を、5回にわたって公開します! 最終回、お楽しみください。
「ねえ東洋子さん、今日のお夕飯はなあに?」
少女のようなかわいらしい声音だ。
なにがきっかけなのか、お義母さんの気分はころころ変わる。
「なにを召し上がりたいですか?」
「たまには山椒屋の巻き寿司が食べたいわ」
「巻き寿司、ですか……」
山椒屋の巻き寿司は一本千二百円もする。鰻が入っているからだ。
舅の世代の厚生年金は高額だ。それは舅が亡くなった今でも遺族年金という形でお義母さんに引き継がれている。そのうえ結構な額の預貯金も遺したと聞いている。にもかかわらず、お義母さんは家計には一円も入れてくれない。長男が親の世話をして当たり前という古い考えを持っているからだ。いや、それ以前に、タダで実家に住まわせてやっているという意識が言葉の端々に見え隠れすることすらある。
最近では財産が少しでも目減りすることが不安を煽るのか、異様なほどケチになってきている。
「じゃあ今から山椒屋に行ってきます」
「自転車で行くんでしょう?」
「いえ、自転車の調子が悪いもんですから」
「まだ修理に出してなかったの?」
きこきこと音が鳴るだけで、故障してはいない。
「歩いて行くので時間がかかります」
山椒屋まで歩いたら十五分近くかかる。
買い物だけが息抜きだった。
自転車が壊れているという便利な噓を、なぜもっと早く思いつかなかったかと歯ぎしりする思いだ。心の中から悪魔を追い出すには外の空気を吸うのがいちばんだ。
だけど、のんびりと歩くわけにもいかない。お義母さんが外出時間を計っている。今日は昨日より三分長くかかっただとか、二分短かったなどと言われるたびにぞっとする。
「なにを着ていくの?」
お義母さんは首だけ起こし、東洋子の姿を上から下までじろじろと見た。「きれいにして出かけてね」
近所の人々に、宝田家の嫁はいつもこぎれいにしていると思われることが、お義母さんにとっては大切なことだ。
我が家には孤独な人間が三人もいる
着替えるために二階に上がり、鏡台の前に立った。
毛玉のできたモスグリーンのセーターと膝の抜けたズボン。
リップクリームを塗ったあと、ハンドクリームを頰と手にすり込む。ハンドクリームを顔に塗るようになったら女もおしまいだと言っていたお笑いタレントは誰だったか……。
着替えるのは億劫だった。寝不足のためか、ふらつく。
セーターの上から黒のダウンコートを羽織ると、全身がすっぽり隠れた。
一階に下り、キッチンの引出しから銀行の封筒を取り出した。百万円近く入っている。銀行に行く時間もないので、まとめて百万円おろしてきて、家計費として何ヶ月かに亘って使う。これはお義母さんが倒れてからの習慣だ。
一万円札を一枚抜き取って財布に入れた
外へ出た途端、冷たい風が頰を刺した。
今朝、洗濯物を干したときは春の陽気だったのに、今日は天候が不安定らしい。
「こんにちは、宝田さん」
声をかけてきたのは、近所のマンションに住む六十代の主婦だった。
「こんにちは。お寒いですね」
「お姑さんの具合、どう?」
「食欲もあって血色もいいですよ」
「それは良かった。で、その後、正樹くんはどうなの?」
近所の人々は、正樹が会社を辞めて家にいることを知っている。これが女の子なら、家事手伝いとか花嫁修業だと言われ、関心を持たれることは少ない。しかし、男の子で、それも帝都大卒ともなれば興味津々らしい。町内が高齢者ばかりとなればなおさらだ。
「正樹は……家で勉強しています」
「あら知らなかった。司法試験でも目指してらっしゃるの?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、なんのお勉強?」
「ええ、まあ、ちょっと」
無理に笑顔を作り、「急ぐので、ごめんください」と足早にその場を離れた。
大東亜銀行を辞めたばかりのころの正樹は、毎週のようにスーツを着て面接に出かけていった。しかし二年目に入ったころからは、滅多にスーツも着なくなり、友人に会いに出かけることすら減った。三年目の今は、ほとんど家にいる。
正樹がこのまま引きこもりになってしまったらどうしよう。世間には、引きこもって数十年という男性も少なくないという。そういう記事を目にするたび、不安が突き上げてくる。いや、あの子はそういうのとは違うはずだ。だって、夜中にコンビニやレンタルDVDショップへ行くもの。引きこもりと言われる人たちは、部屋から一歩も出ないと聞いている。だから正樹はそういう人たちとは違う。
いつか立ち直ってくれると思いたい。今まさにもがいているところなのだ。あの子は苦しんでいる。光を見つけようとしているのだ。
考えてみれば、我が家には孤独な人間が三人もいる。正樹とお義母さんと、そして自分。孤独な人間の寄せ集めだ。
山椒屋で買い物を済ませて店を出ると、頰にふんわりと冷たいものが当たった。
商店街の真ん中で、思わず立ち止まる。
雪だった。
バッグから折り畳みの傘を出そうとして、やめた。
ほんの少し両手を広げて深呼吸してみた。
無数の雪片が天から降ってきて、頰や髪や手に落ちては溶ける。
あー気持ちいい。
ちらほらと舞うようだったのが、見る間に本格的になってきた。灰色の雲に隠れて見えないが、厚い雲の向こうには巨大なカキ氷の機械があって、意地悪そうな顔つきの赤鬼がせっせとハンドルを回して下界に落としている。そんな光景が頭に浮かんだ。
赤鬼?
自分の心の中にある悪魔の正体を見た気がした。
赤ら顔で鋭く睨む大きな目と尖った牙……。自分も鬼のように見える瞬間があるのかもしれない。
天を仰いで口を開けると、舌の上に雪が落ちた。
自由の味がした。
ふと視線を感じて目を向けると、自転車に乗った少年が、訝しげな目でこちらを見ていた。
君には想像もつかないでしょう?
こんなオバサンにも、少女みたいな心が残っているなんて……。
ため息をつくと、白くなった息が目の前に広がった。
雪の降りしきる中を歩く。
温かいものが飲みたい。身体の芯まで冷えていた。
最後にカフェに入ったのは、いつだろう。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
コーヒーの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
──山椒屋の店先で長い間待たされたんです。
お義母さんにはそう言い訳すればいい。あそこの寿司は人気があるから、作るのが間に合わなくて待たされることが度々あるのを、お義母さんも知っているはずだ。
ほんの十分だけ。
それくらいは許されてもいいはず。
店の中を進みかけて、思わず足を止めた。
たくさんの客がいた。老人ばかりだ。この店の中にお義母さんの知り合いがいたら、あとで厄介なことになる。
やっぱりまっすぐ帰ろう。
怪訝な表情の店員を尻目に踵を返した。
※この連載は、『七十歳死亡法案可決』p.8~の試し読みです。続きは、ぜひ書籍をお手にとってお楽しみください!