東芝凋落の発端となった不正会計問題。それは、「バイセル取引」をとおして、利益を水増しするものでした。
「バイセル取引」とは、東芝ブランドのパソコンの設計・デザイン・製造などを委託したメーカーに、東芝が安く調達した部品を売り(セル)、組み立ててもらった完成品のパソコンを東芝が買い戻す(バイ)という取引のこと。
バイセル取引自体は、一般的行われており不正なものではありませんが、メーカーに部品を卸す価格を異様に高く設定したり、部品の量を必要以上に多くしたりすれば、東芝はメーカーから多くの資金を得られることになり、これが粉飾の手法として使われました。
西田厚聰社長の時代、目標必達を目指す「チャレンジ」の名のもと、東芝が不正会計の泥沼に堕ちていく様子を、ジャーナリスト・大鹿靖明さんは『東芝の悲劇』で次のように生々しく描きだします。
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社長就任会見で「革新的な製品を出し続ける」と言った西田だが、パソコン部門が苦境に陥ったときにとられた方策は、資材調達のコストダウンなど経費削減策が中心で、かつて森健一や溝口哲也が取り組んだように新しい創造的な商品を開発して売り上げ増をめざすという姿勢には乏しかった。むしろ部下たちに高い目標を設定させて無理やり必達させる「チャレンジ」が横行するようになった。
「チャレンジ」とは、そもそもは土光敏夫が社長だった時代、目標を達成できなかった事業部に「自分たちが決めたことがなぜできないのか」と説明を求めたことに始まる東芝の社内慣習だ。それが西田の時代に入って、経営トップが下々に要求する高いハードルの必達目標へと転化していった。やがてパソコン部門がバイセル取引による粉飾を多用して決算数字を操作するようになったのを始め、東芝の各部門には「チャレンジ」によって無理な会計操作に手を染める粉飾文化が広がっていった。
バイセル取引を導入した後の2005年度以降、東芝のパソコン部門の月次決算をみると、四半期末の6月、9月、12月、翌年3月はほぼ規則的に黒字化するものの、ほかの月はほぼ慢性的に赤字になっている(*1)。
東芝のパソコン部門は、各四半期決算期末に台湾メーカーに売った部品を利益として計上したり(本来は買い戻すため相殺しないとならないので利益計上できない)、調達価格を大きく上回るマスキング価格にして高く吊り上げて台湾メーカーに卸したり、あるいは必要な数量をはるかに超える部品を台湾側に押し込み販売したりするようになっていった。西田はこうした仕組みについて理解し、「四半期決算の利益をかさ上げする会計処理が行われていたことを認識し、又は認識し得た」「バイセル取引により利益がかさ上げされる仕組みについて関心を持ち、理解していた」と、後になって認定されることになった(*2)。
今日、東芝のバイセル取引によって明確な粉飾が行われたと裏付けることができる最初期の事例は、08年の出来事である。
それは、サブプライムローン問題で世界的に景気減速し、東芝も業績悪化が懸念されていた08年5月28日の5月度社長月例でのことである。社長月例とは社長、副社長が各社内カンパニーの経営状態をタイムリーに把握しようと毎月1回、社内カンパニーごとに開催され、社長、副社長のほか財務部門や経営企画部の幹部も参加する大人数の会議である。出席者多数の会議でのやり取りがメモやメールとして共有されたことで、後に東芝の粉飾の証拠となった。
このときパソコン部門のPC&ネットワーク社のトップに就いていた下光秀二郎から「第1四半期の営業利益見込みが52億円にしかならない」との報告を受けると、西田は「全社非常事態である。第1四半期の営業利益を最低でも30億円改善してほしい。調達CR(コスト・リダクション)はもっと出るだろう」と、82億円の利益を達成するよう「チャレンジ」を要求した。
調達CRと聞いて、下光が頼ったのは田中久雄だった。「田中さんにお願いします」と、当時調達グループの担当執行役だった田中の力にすがる発言をしている。バイセル取引の発案者である田中は04年の発案以来、一貫してバイセル取引を含む調達部門の責任者としてかかわり、取引数量や価格など契約条件について実質的な交渉役を担っていた。西田の命令を受けてパソコン部門は同年7月22日開催の7月度四半期報告会において、「CR前倒し確保により西田P(プレジデント=社長のこと)チャレンジ達成」と報告されている。
同8月25日の8月度社長月例の場で、下光はパソコン部門が実際は200億円規模の赤字であるにもかかわらず、08年度の上期に148億円の利益を見込んでいると報告したところ、西田に「さらに営業利益の50億円改善はマストである。全社が大変な状況なので何としてでもやり遂げてほしい」と強く求められた。
実態から乖離した148億円の黒字にさらに50億円を上乗せした合計198億円の「チャレンジ値」を達成しなければならなくなったのだ。結局、下光が考えたのはバイセルを使った粉飾拡大だった。下光は9月、173三億円もの「CR前倒し」を実施し、台湾メーカーに正常の範囲を著しく逸脱した大量の部品を押し込み販売したのである。
この「CR前倒し」とは、台湾メーカーへの部品の前倒し支給であり、「それによって利益がかさ上げされている」と、下光は西田に対して説明している。一方、田中は「ODMへの部材押し込み、支払い延期などの折衝のため、下光に同行して台湾に出張する」と西田に報告し、西田は「東芝はいま本当に苦しいのでよろしく頼む」と答えている。こうしたやり取りをしている以上、西田は何が行われているかおそらく知っていたことになる。
そこにリーマンショックが襲った。10月27日の10月度社長月例で下光が第3四半期は140億円の赤字になると報告したところ、西田は、予定されていた101億円の営業利益を「何としてでも達成してほしい」と強く求めた。「百年に一度」の経済危機なのだから本来は無理して黒字を装う場面ではない。だが、西田は自身の出身部門のパソコンの黒字に固執した。同席していた財務担当の村岡富美雄副社長はその職責上、本来はバイセルの縮小を促す役回りなのに、逆に「第3四半期の赤字は何としても回避してほしい」と、むしろ背中を押した。
ところが下光は12月22日開催の12月度社長月例で、パソコン部門の損益改善を図ることができず、「第3四半期が184億円の赤字になります」と報告せざるを得なかった。すると、西田は「こんな数字は恥ずかしくて公表できない」と叱りつけた。下光はこの四半期でもバイセル取引に伴う部品の押し込み販売を実施し、第3四半期になんとか5億円の黒字を確保せざるを得なかった。
実は、この12月度社長月例に先だって、パソコン部門の経理部長は田中に対して、「第3四半期は赤字にしてみんなで第4四半期に頑張るようにした方がいい」「最後にまたCR(コスト・リダクション=バイセル取引の悪用のこと)でお化粧をしてしまうと前線に危機感が伝わらず、挽回策を打つ手がなくなる」と進言していた。だが、田中はそれには取り合わず、「いま西田社長を助けられるのはパソコンしかない」と言い放った。このあと田中は、下光、能仲久嗣とともに「ODMにいくら要求するか」という緊急打ち合わせをもち、その後、田中は再び台湾へ飛んで相手先と交渉することになった。
翌09年1月23日開催の1月度社長月例でパソコン部門の下半期の営業損益が184億円の赤字見通しと報告されると、西田は「利益はプラス100億円の改善はミニマム」「死に物狂いでやってくれ」と叱咤したうえで、「このままでは再点検グループになってしまう。事業を持っていても仕方がない。『持つべきかどうか』というレベルになっている。それでいいならプラス100億円をやらなくていい。ただし売却になる。事業を死守したいなら最低100億円をやること。がんばれ」と高圧的な口調で命令を下した。
再点検グループとは、事業撤退を含めた事業継続性の見直しという意味だった。「おとりつぶし」を脅迫材料にして不正を強いるのはトップにあるまじきことである。
下光はまたしても不正に手を染めることになった(*3)。
*1 東芝第三者委員会「調査報告書」、p219、および付属資料。
*2 役員責任調査委員会「調査報告書」、p65~66。
*3 ここまでの記述は、東芝第三者委員会「調査報告書」、p219~223、 役員責任調査委員会「調査報告書」、p74~76。
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バイセル取引導入と同時進行で、東芝は原発メーカー・ウェスチングハウスの買収に乗り出します。東芝にとって決定的なダメージとなったウェスチングハウス買収の真相は、『東芝の悲劇』でお読みいただけると幸いです。
次回は10月19日に公開予定です。
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