大好評発売中!! 科学の進歩と人の生き様を描く、慟哭必至の医療ミステリ小説『ゴールデン・ブラッド』(内藤了・著)。無料試し読み第4回です!(前回まではコチラから)
銀座の真ん中で爆弾がさく裂した。
血に染まる現場を消防士・圭吾は無我夢中で駆ける。
* * *
そこからわずかな瞬間を、圭吾はスローモーションのように記憶している。
灰色の輪郭を持つ閃光は、ピンクがかったオレンジ色に発光しながら噴煙となり、やがて真っ黒な煙と化してあたりを覆った。爆音に聴力を奪われて、圭吾はその場に凍り付き、だから目の前で起きていることが、すべて無音に思われた。
熱風と衝撃が全身を打ち据えて去り、咄嗟に瞑った瞼には、埃とも火の粉ともつかぬ粉末が、焼け付くように突き刺さってきた。思考は光の速さで回転し、起こりつつある惨劇を食い止めたいと魂が叫んだ。自分の体を盾にして背後のテントを守る幻影さえ見る。夢になれ、夢になれ、これは夢だ、夢であってくれと心が叫ぶ。むりやり目を開くと脳はさらに回転を速めて、飛び込んでくる光景を鮮明な映像として焼き付けた。
宙を舞う応援旗。ビルから落ちるガラスの破片。空中に留まったような人がいたが、その人は地面に叩き付けられて、さらに飛ばされ、ひしゃげたガードパイプで串刺しになった。放水さながら口から噴き出す血液を、あまりにも緩慢に確認する。破片や欠片が火山弾のように飛来して、撃たれた人が倒れていく。死にゆく者の表情さえも認めたように思うのは、衝撃の魔法か、気のせいだろうか。
目眩(めくるめ)く惨状は一瞬で過ぎ、突然、音が戻ってきた。そうして圭吾は灰色に霞む車道から、何もかも破壊された街の一角を、呆然と眺めているのだった。
「班長……?」
圭吾は伊藤を呼んだ。耳が 痺れて頭が痛く、車も、街も、煙に霞んで見えやしない。
なんで、どうして、そう思う間に、あちらこちらから呻き声が上がる。
圭吾は走った。
雨あられのようにパラパラと、焼けた何かが降り注ぐ。そのひとつが首の後ろに入って、背中が焼けた。火薬と、埃と、吐瀉物の臭い。空気はザラザラと口に貼り付き、むせ返るような金属の臭いがした。次第に視界が利きはじめると、血溜まりが見えた。一箇所ではない。随所にある。あっちもこっちも血だらけだ。真っ先に閃いたのは、国立保健医療科学院の講師の顔と、医療用血液がまったく足りていないと憂える声だった。消防署の勉強会で学んだことが、緊急時にもかかわらず、眼前の光景にリンクする。血液は誰かの命そのものだ。それが酷くまき散らされた光景に、圭吾の心臓はドクン! と鳴った。
車道にランナーが倒れている。仰向けになった若い女性で、頭蓋骨が割れて、死んでいる。外れかけたスポーツグラスの下に見開いた目があって、その目が圭吾に問いかけてくる。
何があったの? 私は死んでしまったの? と。
ガードレールが大きくひしゃげ、剥き出しのパイプに刺し貫かれた男性がいる。まだ意識があるらしく、腹部にパイプが突き出しているのが理解できないという顔だ。両足はひしゃげて胴体の裏側にあり、穴という穴から大量に出血しているので、あと数秒の命だろう。
助かる命を助けることが最優先だと、圭吾は自分を奮い立たせて、彼を見捨てた。
何もかもが悪夢のようだ。もみ合っていた二人の男は跡形もなく、水風船を割ったような血の痕だけが残されている。千切れたシャツ、千切れたリュック、置き去りにされた無数の靴、何かの破片。誰かの腕や足が落ちていて、呆然とそれを見つめる人がいる。何かしなければと立ち上がったまま、惨状にパニックを起こした人も。動かない女性を胸に抱き、頭を垂れて泣く男性も……助けて下さい……誰か助けて……懇願するのは怪我人ではなく、怪我人に寄り添う人々だ。
どうすればいい? どうすれば。全員を一度に助けるなんて不可能だ。
凄惨な光景だけがグルグルと脳裏を廻り、キャパシティがまったく追いつかない。圭吾は思わず頭に手をやり、そして、血だらけで横たわる伊藤に気付いた。
目が合うと、伊藤は叫んだ。
「ケイ、各方面に緊急要請! 助かる人を死なせるな!」
その怒号に頬を張られて、圭吾は、為すべき事と順序を思い出した。
呆然と立ちすくんでいた警備員をつかまえて、本部に緊急要請させる。別の一人の腕を取り、周辺病院へSOSを発信させる。動ける者に声を掛け、協力して怪我人を移動する。
「避難! 避難! 動ける人は至急ここから離れて下さい!」
爆弾テロの場合には、集まってくる人々を狙った二度目の爆発が予測できる。
「向かい側に救護テントが。そちらへ避難して下さい! 動けない人はいますか?」
千切れた足を拾い上げ、片足だけで避難する人、救助のために駆け寄って来る人、遺体に取り付いたまま動けない人。ジリジリと、焦りが圭吾の心臓を灼くが、幸いなことに二度目の爆発は起こらなかった。誰かが車椅子を持ってきて、膝から下を失った男性を乗せる。多くの被害者が爆風で半裸にされて、剥き出しの傷口から骨が覗いた人もいる。ぼろきれのような四肢が随所に落ちて、断面が覗いている。可能ならば千切れた手足も拾うのがいい。無事に接合できるか、わからないけれど。
手伝いましょうと来てくれたおばさんの額には金属片が突き刺さっていて、圭吾は救護テントをお願いしますと彼女を行かせた。今は興奮でアドレナリンが出まくっているが、自分の状態を知ったなら、その場で昏倒すると思われたからだ。けたたましいサイレンの音。どこからか集まってくる多くの人々、叫び続ける人の声、怒号と悲鳴が行き交う中を、圭吾は伊藤の許へ戻った。
「伊藤班長、避難しますよ」
そばにいた男をつかまえて、手を貸してもらう。伊藤は蒼白になって震えながらも、
「俺は最後でいい」と、言う。
どう見ても、最後でいい状態ではない。出血が多く、全身にこびりついた粉塵の灰色を差し引いても、その顔色は深刻だ。
「重傷者は概ね搬送し終わりました。行きましょう」
落ち着いた声で話しかけながら傷口を確認すると、肩口に大きな穴が空いていた。屈強な男の皮膚を粉砕したのは爆風に飛ばされたペンらしく、伊藤を貫通したあげく、アスファルトで砕け散っていた。抱き起こすと血の塊がドロリと落ちて、ギョッとする。脈拍は弱く、体温も低い。一刻を争う症状なのに担架もストレッチャーも足りていないので、傷口を手のひらで塞いで伊藤の腕を肩に回した。助っ人にも同じようにさせ、空いた方の腕を膝裏に通す。
「いきますよ、せーのっ !」
かけ声と共に立ち上がったとき、伊藤は意識を失った。
彼には子供が二人いて、下の子はまだ幼稚園児だ。祈るような気持ちで救護テントへ運んで行くと、そこは野戦病院のようになっていた。
「お願いします。ショック状態です!」
ごった返す人々の奥で、竹山が顔を上げる。だが、それだけだった。ブルーシートには累々と怪我人が並べられ、誰もが懸命に作業している。トリアージが行われ、救急スタッフが色分けしたカードを配っていく。最優先患者の赤いカード、準緊急治療者の黄色いカード、待機可能な緑のカード。そして、死亡者を示す黒いカード。
圭吾はシートに伊藤を横たえた。スタッフが赤いカードを置いてくれたが、手の空いている者などいない。馬乗りになって心臓を押す。
「伊藤さん、伊藤班長っ!」
名前を呼ぶも、反応はない。AEDの数すら足りず、ほかに為す術もない。
圭吾は心臓を押し続けた。あっちからも、こっちからも、名を呼ぶ悲痛な声がする。医師たちの怒号、サイレンの音と呻き声。AEDが電流を送るショックと、出て行く救急車、また悲鳴……みな切羽詰まった目をしているし、何も失うまいともがいている。誰かが心臓マッサージを替わってくれたので、圭吾は再び現場へ戻った。
歩道の配電盤とガードパイプの間に挟まっていた老女を抱き上げ、テントへ走る。妻の遺体にとりついたまま、泣き続けている男性を抱き起こす。観衆の荷物が散乱し、血糊は長く線をひき、血と、内臓と、煙の臭いがあたりを包む。街路樹には髪の毛ごと頭皮と脳みそが貼り付いて、空は煙で灰色に霞み、地面には艶やかな五色の旗が、黒く血を吸って落ちている。
誰か……いないか……
圭吾は声を振り絞る。
ケガ人はいないか……救える命はもうないか……
叫び声が頭の後ろを通り過ぎ、気持ちばかりがドクドク焦って、自分の動作が酷く緩慢に感じられる。現場に虚ろな空間が広がりつつあり、それを野次馬が遠巻きにする。彼らが一様にスマホを向ける仕草に吐き気を感じ、怒りを覚える。
そうして、いつしかわけのわからないままに、ケガ人の収容は終了していた。
走っているのは警察官と、今となっては滑稽な、原色の服を着たスタッフばかりだ。圭吾は救護テントに戻り、消毒液で両手を洗った。救急救命士は医師ではないが、医師の指示があれば心肺停止時の電気ショックや薬剤の投与、点滴や気道確保などの特定行為を行えるのだ。
「きみ、そこの制服の !」
中年医師が圭吾を呼んだ。
居並ぶ患者を縫って走って行くと、医師は圭吾に点滴を指示した。
患者の数が多すぎて、医療スタッフの数が足りない。医療スタッフばかりでなく、担架も、医療キットも、何もかも足りない。天井から無数の点滴チューブが下がり、ブルーシートは人だらけだ。圭吾は医師の指示通り、ショック状態の患者に点滴を施した。金色がかった液体だった。
「早くしたまえ、次はこっちだ!」
誰が誰に出す指示なのか、張り詰めていないと聞き逃す。サイレンの音がグルグル響き、怒号と呻きがそれに重なる。目の端で、左右に首を振る竹山を見た。黒いカードが患者に置かれ、竹山は次の患者の許へ行く。
できることを。今できる最善のことを。呼吸するように繰り返しながら、圭吾は懸命に作業する。いつしか汗も枯渇した。目に入らなくてちょうどいい。
最中、誰かに腕を掴まれた。
「こっちへ。あなたもケガの手当てをしないと」
振り向けば竹山の顔があり、圭吾の腕を掴んでいる。腕は血濡れて、ぬるぬるしていた。
「あとで縫うとしても、せめて消毒しておかないと」
傷を負った覚えはないし、今はそれどころではないと思った。
「俺は大丈夫です。それよりも」
言いかけて誰かとぶつかり、点滴袋が落ちて、パックが破けた。ブルーシートに中身が溢れ、それを拾い上げようとしたときに、パタパタパタッと血が落ちた。鮮血は圭吾の右腕から出たもので、確かにケガをしたのだと思った。
「すみません」
ぶつかってきた救命スタッフが頭を下げる。
圭吾は腕を止血して、再び特定行為に戻った。
嵐のような時間が過ぎて、患者たちは全員病院へ運ばれた。
後処理でテントに残った圭吾の周囲を、今は警察関係者やマスコミが行き来している。霧のようだった煙が消えると、あからさまになった爆発現場は、なおいっそうに物凄かった。
ブルーシートの奥で、ガードレールに串刺しになった男性の現場検証が進んでいる。道路を覆うシートの下は、頭蓋骨が割れた女性ランナーだ。二人の男の残 骸もまた、警察関係者がシートで覆い隠してしまった。ビルの植え込みの前に立ち、警察官と鑑識官が話している。手にしているのは野球のボールだ。あの時、爆破を止めようとした中年男が持っていたボール。新品のようなボールの白さが、圭吾の胸を衝いてくる。
「大丈夫でしたか? あっ、向井さんもケガしているじゃないですかっ」
自分の背後でした声が、誰に向けられたものか理解するのに一秒くらいかかったと思う。
「大丈夫か圭吾」
そこにいたのが同じ第七消防方面本部の仲間だったと理解するのに、また一秒くらいかかってしまった。機関員の小林と同僚の宮田が応援に駆けつけてくれていたことを、圭吾はこの時初めて知った。
「小林……宮田……」
「酷い傷だな、大丈夫かよ?」
宮田が圭吾の肩に手を置いた。爆発の瞬間、無意識に顔面を 庇ったのだろう。右腕は肘から手のひらにかけてザックリ切れて、包帯から血が 滲んでいた。
「伊藤班長は病院へ運ばれたってな。おまえも早く病院へ……」
小林。宮田。おまえたち。
そのとたん、圭吾は膝から地面にくずおれて、両膝の間に自分の頭を突っ込んだ。
「圭吾、おい。マジ大丈夫か?」
大丈夫。大丈夫だ。俺だって消防官だぞ。火災現場も、事故現場も、それなりに場数は踏んでいるんだ。そう心で言いながら、圭吾は全身を震わせた。
仕事で初めて衝撃を受けたのは、緊急消防援助隊として東日本大震災の被災地へ赴いた時だった。圭吾は当時二十一歳。壊滅され尽くした陸地を目の当たりにしたときの、震える程の絶望と恐怖は生涯忘れられないけれど、少なくとも、あの現場には悪意がなかった。
思い出すのは真っ暗な被災地に向けて延々と続く救助車両の光の筋と、歯を食いしばって前を向く人々の、底知れぬ強さと逞しさ、負けてたまるかという気概だった。
けれども今日のこれは違う。道路にも、街路樹にも、空気にも、傲慢な悪意がわだかまる。
この感情がなんなのか、圭吾にはよくわからない。悲しみなのか、恐怖なのか、自分の無力さに対する絶望なのか、犯人に対する怒りなのか、わからない。爆発後の一部始終が今も圭吾を取り巻いて、救護テントで異彩を放ったトリアージの色が瞼の裏で 閃き続ける。重篤患者の赤、赤、赤。死亡を示す何枚かの黒。自分の体に付着した血と内臓の臭いに咽せ返り、咽せながら何度も生唾を吐き、突き上げてくる戦きに慟哭する。
酷いじゃないか。どうしてこんな、どうしてこんな酷いことを、人間がしたんだ……どうして人間が人間に対して、こんな惨いことをやってのけるんだ。
みっともないと思っても、どれだけ地面を睨んでも、むせび泣くのを止められない。泣きながら、圭吾は何度も、同じことばかりを問うていた。
答える者は死んだというのに。
* * *
次回、消防署へ帰還した圭吾をさらなる悲劇が襲う。第5回は11月14日公開!
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ゴールデン・ブラッド
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