恋人が月の半分だけ東京にやってくる、という女友達がいる。
その人は月の半分だけ東京で仕事をして、もう半分は暖かい島で暮らしているのだそうだ。だから彼女にとってその彼は、月半分だけの恋人らしい。
「その彼は、月のもう半分は何してるの?」
と尋ねると、
「奥さんとのんびりしてる」
と答えた。驚いて「それでいいの?」と尋ねると、「それでいい」と彼女は答えた。
彼女は離婚経験者でしかも仕事が忙しいし趣味の時間も欲しいので、べったりとずっとそばにいたがるような男の人はむしろ困るらしい。
「彼ね、すごいエネルギーを持ってる人だから、一人の女では彼を受け止められないと思うんだよね」
「だから奥さんと二人で分け合うってこと?」
「そう。半分くらいでちょうど良い」
さらに驚くことに、彼女と彼とその奥さんは、一緒に旅行したりする仲なのだという。
「奥さんは知ってるの?」
「たぶん。言葉では確認したことないけどね」
わたしも、その奥さんとお会いすることになった。会ってみてはっとした。女友達にそっくりだったのだ。顔も、体つきも、話し方も、雰囲気も考え方も。
一瞬で奥さんのことも好きになってしまった。困ったな、と思う。どう考えても変な関係だ。
奥さんをちらちらと観察する。気付いているのか気付いていないのか。でも普通に考えて、自分とよく似た女がいたら、自分の夫の好みのタイプであることはすぐに分かるだろう。頭も勘も良さそうな人だった。気付いていないとは思えない。
それでもわたしが見る限り、女友達と彼とその奥さんは、とても仲が良いように見えた。
彼らは三人で、三人だけのルールのの中で生きているのだ、と傍観者のわたしは思う。それは不倫とかいうあまり美しくない言葉で表現できるような関係性ではなかった。
一夫一婦制が導入されたのなんてこの百年くらいのことだ、という話はよく聞く。いわばキリスト教的文化が日本にもたらした考え方なのだとかなんとか。
でもそんな誰かの決めたルールなんかどうでもいいんだなあ、と彼らの関係を見ているとしみじみ思ってしまう。
本人たちが納得していれば、一夫多妻だろうが多夫一妻だろうが多夫多妻だろうが、なんでもいいのだ。そこに、お互いを思いやる気持ちがあれば。もちろん、ひとりでも納得していない人がいたら不幸が生まれてしまうだろうけれど。
二十代の頃のわたしはきっと、そんなふうに思えなかった。女友達の気持ちが分からなくて悩んだかも知れない。そんなの本気の恋じゃない、とか説教したかも知れない。あの頃は一人の人を独占したくてたまらなかったし、独占して欲しかった。
人は年齢を重ねると、ゆっくりと恋愛をしたくなるのかもしれない。人生のステータスを恋愛に全部振り分けできなくなっていく。実際、恋愛すると疲れは溜まるし体も辛い。睡眠時間を削るくらいなら恋愛しなくていいや、と思ったりもしてしまう。二十代の恋愛は人生のすべてで、四十代の恋愛はきっと生活の一部なのだろう。
つがいで生きる人生も良い。一人で生きる人生も良い。複数で生きる人生も良い。
恋愛や結婚や婚外恋愛のあり方も、もっと多様性があって良いはずだ。
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愛の病
恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。