中川右介著『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)――日本全体が動揺し、今なお真相と意味が問われる三島事件。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミ百数十人の当日の記録を丹念に拾い時系列で再構築、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。
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死んだ作家は、かれ自身の全体が生者へのメッセージにかわる。生き残った者たちは、望むと望まぬとにかかわらず、滅びた肉体の遺したメッセージを受けとめねばならぬ。
──大江健三郎「死者たち・最終のヴィジョンとわれら生き延びつづける者」より
はじめに
一九七〇年=昭和四十五年は、昭和のオールスターが揃っていた年だ。
昭和天皇はまだまだ元気だったし、内閣総理大臣は最長在任記録を持つ佐藤栄作、自民党幹事長は田中角栄、防衛庁長官は中曽根康弘、警察庁長官は後藤田正晴だった。最強の布陣ではないか。
文学界も芸能界も、老壮青それぞれの世代にスターがいた。さらにその下にやがて芽を出す無名の青少年たちもいた。
そのなかで、最前線にして最高位にある人が、突然、死んだ。
その日──一九七〇年十一月二十五日、作家三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地に彼が結成した私的軍隊である「楯(たて)の会」のメンバー四人と共に乗り込んだ。東部方面総監を人質にとり、自衛隊員を集め、三島は演説をして決起を呼びかけた。しかし、誰も呼応せず、クーデターは失敗に終わった。三島はその直後に割腹(かっぷく)、楯の会の同志である森田必勝(戸籍上は「まさかつ」だが、本人は「ひっしょう」と読まれることを希望していた)が介錯(かいしゃく)し(さらに別の者によって首は刎ねられた)、その直後に森田も割腹し、楯の会の同士が介錯した──これが、世に言う「三島事件」である。ひとによっては、「楯の会事件」と呼ぶ。
おそらく、現在五十歳前後以上の多くの日本人が、この日にどこでどのようにあの事件を知ったかを語ることができるはずだ。
ちょうど、七十歳以上の人ならば一九四五年八月十五日について語ることができるように。あるいは、アメリカ人ならば一九六三年十一月二十二日や二〇〇一年九月十一日について語ることができるように。
しかし、よく考えてみれば、八月十五日は日本人だけでも数百万の命が喪われた戦争が終わった日だし、九月十一日も数千人が亡くなり、さらにその後の戦争にもつながる日だ。喪われた命はひとつだが、一九六三年十一月二十二日は世界最強の国の最高権力者が暗殺された日だ。これらに比べれば、一九七〇年十一月二十五日は、一人の作家が同志と共に自殺したにすぎない。戦争が終わったわけでも始まったわけでもないし、大統領が交代したわけでもない。クーデター未遂事件としての側面も持つが、まさに未遂に終わった事件である。それなのに、なぜ、かくも多くの人が、饒舌にあの日のことを語るのか。
やはり、あの日によって、何かが終わった、あるいは何かが始まったとの意識──それは、日本が変わったということでもあり、それぞれの個人にとっても何かが変わった、変わらざるをえなかった日だとの意識があるからなのか、単に衝撃的だったからなのか。
まず、三島由紀夫という存在を確認しておく必要がある。
二十一世紀初頭の日本においても、ベストセラー作家や国際的な評価を得ている作家ならば何人もいるが、三島のような存在はいない。三島由紀夫は、単なる人気作家ではなく、あの時代のスーパースターだった。こんなデータがある。当時八十万部を発行していた若者向きの雑誌「平凡パンチ」が、一九六七年春に「現在の日本でのミスター・ダンディ」は誰かを読者投票で選んだ結果、総投票数一一万一一九二のなかで、三島は一万九五九〇票で堂々の一位だったのだ。二位以下は、三船敏郎、伊丹十三(じゅうぞう)、石原慎太郎、加山雄三、石原裕次郎、西郷輝彦、長嶋茂雄、市川染五郎(現・松本幸四郎)、北大路欣也(きんや)である(『平凡パンチと三島由紀夫』椎根和著より)。つまり当時の青年にとって、三島は映画スターやスポーツ選手よりも人気があったのだ。
そういう人が「自殺」しただけでも大事件だが、その死に方が、自衛隊に乗り込み、割腹し、さらに介錯されて首が胴体から離れたわけだから、その衝撃度の大きさは途轍(とてつ)もないものだった。
事件は猟奇性でも衝撃を与えた。当日の朝日新聞の夕刊にはモノクロームではあったが、直後の総監室の写真が掲載され、そこには三島と森田の首が床に並んでいるところまで写っている。テレビでも首が一瞬映ったらしい。
実際の切腹シーンは現場にいた楯の会の四人と、人質の総監しか見ていないわけだが、映画『憂国』の切腹シーンや写真などで、すでに多くの人の脳裡には三島が切腹するシーンが焼き付いていたので、実際の切腹場面を見たかのように感じた。
このように話題性のある死に方だったが、さらに大きな謎が待っていた。その自決の目的が誰も明快に説明できなかったのだ。
「三島由紀夫は、自衛隊東部方面総監室に乗り込み、総監を人質にとり、自衛隊員を集めて演説することを要求。集まった自衛隊員の前でクーデターを呼び掛けるが、誰もそれに応じなかったので、総監室に戻り、自決した」というのが、事件のあらましだ。これは事実なのだが、ミスリードしやすい内容でもある。当時の状況を知らない人が読むと、三島は「クーデターが失敗したので自殺した」と思うだろう。だが、そうではない。
三島はクーデターの成功はまったく考えていなかった。どのように切腹し介錯してもらうかについては綿密に計画を立てていたが、もし自衛隊員が「そうだ、そうだ、三島さんについていこう」と決起した場合のその後の計画は何もなかったのだ。本気でクーデターを考えるのであれば、どの部隊をどう動かし、皇居、総理大臣官邸、国会、放送局などをどのように制圧するかといった軍事面と、政権掌握後の憲法改正までの政治スケジュールなど、膨大かつ緻密な計画が必要だが、そんなものは何もなかった。
三島はクーデターの失敗を前提として、この日の行動計画を立てた。逆に言えば、最初に自殺することが決まっており、自衛隊員に向かって演説すること、さらに演説するために総監を人質にとることなどは、その後で考えられていったのだ。
そのため、芸術家特有の芸術的・美学的な自殺だったという説や、いやクーデターは本気だったという説など、さまざまな説が氾濫した。謎が謎を呼び、話題が話題を呼んだ。誰もが何かを語りたくてしょうがない事件となった。
その一方、沈黙を守る人もいた。同業の文学者や左翼系文化人の中には、自分たちが書斎に閉じ籠り偉そうに書くだけで、街頭に出て行動しないことに負い目を感じていたので、命を賭して派手に行動した三島を無視し、沈黙した人も多い。
世界的にも冷戦の最中であり、日本国内では東京をはじめとする大都市で革新自治体が生まれ、学生運動も激化していた。左右が激突している時代だった。
こうした時代背景のもとでの、超有名人の突然の猟奇的・政治的・文学的・美学的な死だったのだ。
人々が興奮するのも、当然だった。
本書には、約百二十名の人物が登場する。当時すでに有名だった人もいれば、無名の青年もいる。三島由紀夫と親しかった人もいれば、まったく面識のない人もいる。
「百二十」という数字には、深い意味はない。二百五十頁から三百頁の本にしようと思い、ひとりあたり二頁か三頁ということで、逆算して、百人を目標としていたら、結果として百二十人になった。
記述の基本方針は、当人が何らかのかたちの文章に書き、公にしている文献で、一九七〇年十一月二十五日に当人がどこで何をしていたのかが明記されているものを典拠とした。しかし、なかには第三者による証言、あるいは第三者が取材して明らかになった事実も含まれる。
こうやって、「百二十人の一九七〇年十一月二十五日」を集め、それをもとに同一スタイルの文章で再構築し、なるべく時系列順に並べた。
登場する人物の一覧は、巻末に参考文献と共に掲げた。
これがあの日の「すべて」だとも、あの日の「縮図」だとも言うつもりはない。
ただ、あの日、というかあの時代の雰囲気は伝わっているのではないかと思う。
すべてが大袈裟で、熱く興奮に満ち溢れていた濃い日々だった、と。
なお、この本では、ミステリ──それも叙述トリックのミステリの好きな方であれば、気づくはずのトリックを仕掛けた。その種明かしは「あとがき」でする。
昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃
一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。