中川右介著『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)――日本全体が動揺し、今なお真相と意味が問われる三島事件。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミ百数十人の当日の記録を丹念に拾い時系列で再構築、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。
第二章 真昼の衝撃
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村上兵衛
この事件に接した多くのマスコミ関係者が、「大宅壮一なら、一言でどう表現するだろうか」と思った。
大宅はテレビ時代を「一億総白痴化」と断じ、さらには各都道府県にできていった大学を「駅弁大学」と呼ぶなど、世相を見事に表現した評論家だ。
しかし、その大宅は三日前の十一月二十二日に七十歳で亡くなっていた。二十三日が仮通夜、そして二十四日の夜が通夜で、その両方に出ていた評論家の村上兵衛(ひょうえ)は、疲れ果てて自宅の近くに借りていた安アパートの仕事部屋で、《奈落の底まで落ちるように昏々と眠った。》
村上はこの年、四十七歳。陸軍士官学校を出た後、近衛歩兵第六連隊旗手を経て、陸軍士官学校区隊長となっていた時に敗戦を迎えた。その後に東京大学に入り、独文科を卒業、作家として活動し、評論、ノンフィクションの分野で筆を揮(ふる)っていた。
その枕もとにある電話が鳴った。「サンデー毎日」の徳岡孝夫からだった。
「いま、三島由紀夫と楯の会が、市ヶ谷の東部方面総監室に進入しています。ベランダで三島さんが演説しています。彼は切腹すると言っています」
村上は跳ね起きた。敷布団の上に、大胡坐(おおあぐら)の姿勢をとり、「寝耳に水とはこのことか」と思った。村上は三島と親交があり、この少し前に新聞で対談し、楯の会を話題にしたばかりだった。さらには楯の会の信州での合宿も取材していた。
《しかし、このような「展開」を私はまったく予想していなかった。》
村上はラジオをつけた。いったい、何が起きたのか。起きているのか。その情報を得るには、ラジオしかないと思われた。だがその直後から、村上の部屋にはマスコミ各社から次々と電話がかかってきた。
「あーあ、葬式肥りか」と村上は苦笑いした。大宅壮一の死を受けて、追悼文を書いたばかりだったのに、今度は三島かと思ったのだ。
村上が『小説三島由紀夫』を「週刊サンケイ」に連載するのは七一年一月の号からだった。
大宅壮一宅
二十二日に亡くなった大宅壮一の妻、大宅昌(まさ)はこう語っている。
《三島由紀夫さんが切腹なすったという特別番組が画面にうつし出された時、私はテレビを大宅の祭壇のほうへ向けてやりました。主人なら、いま何というだろうと思って……。》
京王井の頭線・駒場東大前駅近くの喫茶店「KEN」
映画や文芸の評論家四方田犬彦(よもたいぬひこ)は、この年十七歳、東京教育大学農学部附属駒場高等学校(現在の筑波大学附属駒場高等学校)の三年生だった(彼は二月生まれ)。
大学紛争は高校にも飛び火し、駒場高校でも一九六九年にはバリケード封鎖がなされるまで運動は激化し、日本共産党の青年組織である民青(民主青年同盟)と、新左翼のセクト、そしてノンセクトの三つのグループが対立していた。
その紛争も一九七〇年には終息していた。四方田はどこのセクトにも属さず、映画と書物に耽っていた。授業にもあまり出なくなっており、同級生たちは受験勉強の追い込みに入っているのに、それもせず、《空虚な気持ちを抱きながら、怠惰な日常を過ごしていた》。
十一月二十五日も午後の授業は放棄して、駒場東大前駅の近くにある「KEN」という喫茶店で時間をつぶし、その日に発売された「ヤングコミック」の宮谷(みやや)一彦の『あにおとうと』を読んでいた。
店内では、いつも流れていたビートルズのレコードが突然に中断され、FM放送に切り換えられた。ラジオからはニュースが流れてきた。
《三島が楯の会の四名とともに自衛隊市谷駐屯地で旧知の将官を監禁し、その直後に割腹自殺を遂げたというニュースだった。》
それを聞いたとたんに、店内にいた十人ほどの客が一斉に店を出て行った。四方田も、勢いにつられて外に出た。
《あたかもこれで東京に戒厳令でも敷かれるのではないかという雰囲気が、そこからは感じられた。》
しかし、目に入った、喫茶店や洗濯屋や書店とラーメン屋の並ぶ街並みは、いつもと同じだった。
《喫茶店の外側に、昨日までとまったく変わりのない平穏な日常の社会がどこまでも続いていることに、憤激とも落胆ともつかない奇妙な感情を体験した。》
四方田は一浪した後、一九七二年に東京大学文科III 類に合格する。
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若尾文子
女優若尾文子は自宅にいて、昼食をとっていた。
《そこへあのニュース。あまりの驚きで、食事は喉に通らないし、そのまま、ずっと寝込んでしまいました。午後ね。》
そして若尾は、三島が彼女について書いた文章を読み返して、その日の午後を過ごした。
若尾は、三島が出演した最初の映画、『からっ風野郎』で共演し、また、三島の小説を原作とする『永すぎた春』にも出演するなど、三島とは縁があった。
三島は一九七〇年十月の「映画芸術」誌の対談で、いまは藤純子がいいが、まえは「若尾文子がすきだった」と言っている。もちろん、女優としての話である。若尾はこの年、三十七歳。前年に離婚していた。
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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃
一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。