自分なら一線を越えずにいられたか? 何が善で何が悪なのか? 記者が紙面の短い記事では伝えきれない思いを託して綴る、朝日新聞デジタル版連載「きょうも傍聴席にいます。」。毎回大きな反響を呼ぶ人気連載が新書『きょうも傍聴席にいます』としてまとまりました。記者が見つめた法廷の人間ドラマをお届けします。
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司法試験の合格を目指していた男が、妻と不倫関係にあった男性弁護士の局部を切断しトイレに流したとして、傷害罪などに問われた事件。衝撃的な結末に至るまでに、3人の男女に何があったのか――。
2015年10月28日に東京地裁で開かれた初公判。被告の元法科大学院生の男(25)は、認否を問われると、「間違いありません」と答えた。ボクサーのプロライセンスを持つ被告だが、法廷に現れた姿はそんな気配を感じさせず、どこか不安そうな様子だった。
起訴内容は、40代の男性弁護士の顔を数回殴り、局部を枝切りバサミで切断したというもの。被告の妻は法律事務所でこの男性弁護士の下で働いていたという。
裁判は波乱の幕開けだった。初公判で検察側が冒頭陳述を読み上げようとすると、弁護人が「(被害者の)詳細なメールの内容が引用されていて不当だ」と異議を挟んだ。結果、検察官は詳細なメールの引用は控えた上で、翌11 月の第2回公判でようやく冒頭陳述を読み上げた。
その冒頭陳述などをもとに経緯をたどる。
事件の舞台は東京地裁からほど近い東京・虎ノ門の法律事務所。被告の妻は14年5月、専属事務員として働き始めた。その年の12月末、弁護士として勤務していた被害者と男女の関係になった。二人は、コスプレをしてのカラオケや高尾山観光などのデートを繰り返し、たびたびホテルへ。妻が働き始めて1周年の記念に、4万円のネックレスが贈られた。
ところが、15年夏には妻の感情が冷め、被告に「勤め先の弁護士からセクハラを受けている」と相談するようになったという。
16年3月の公判で、読み上げられた妻の調書では、被害者について「好意を持っていた」と語る一方、「被害者が自分に酔ったようなメールを送ってきて、だんだんと気持ち悪くなった」と述べられていた。
4月の被告人質問。弁護人は一番に被告と妻のなれそめを問うた。
弁護人「奥さんと知り合ったのは」
被告「11年3月、東日本大震災のボランティアをしていたときです」
同年8月に交際がスタート。被告は大学2年、妻は大学4年だったという。被告が病気のときも妻が支え、二人は翌年6月に結婚。被告は大学卒業後に法科大学院に通い、司法試験合格を目指して勉強した。
被告「今後も一生一緒に生きていきたいと思い、結婚しました」
一方、妻の気持ちは少し違っていたようだ。法廷で読み上げられた妻の調書には、こう書かれていた。「結婚すれば会社の福利厚生を受けられるし、紙っペラ1枚のことだと思って結婚した。家族に幻想を抱いていなかったし、実家への反発もあった。生活してみて甘かったと思ったが、猫と同じように被告もペットと思えば腹も立たなくなった」
事件の少し前になると、被害者との関係が冷えた妻は被告に、「被害者から気持ち悪いメールが来た」「呼ばれたくないニックネームで呼ばれる」などと相談するようになる。
被告「妻の母親は、『環境型セクハラだから、そんな職場辞めなさい』と言っていた。僕はニックネームがセクハラになるかわからなかったが、専門書を読むとセクハラになるという本もありました」
それでも、被告はそれだけでセクハラと訴えることにはためらいがあった。
15年8月8日、被告が「何か他にため込んでいるなら話して」と声をかけると、妻は被害者と肉体関係を持ったことを告げた。
被告「妻は『やめてくださいと言っても被害者はやめてくれなかった。怖くて頭が真っ白になってされるがままにされた』と。さらに別のときも、ワインを飲み過ぎてフラフラしていたらホテルに連れて行かれた、と」
被告は話を聞きながら、胃が痛くなり、トイレで吐いたという。
被告「妻は性欲のはけ口に使われ、妻はそのことをずっと一人で耐えていた。僕に話す妻の姿がつらそうで、悲しみや絶望という感情が出て、被害者への怒りに変わりました」
妻本人は「強姦とは思っていない」と説明したが、被告はそんな妻の態度を「ロースクールで学んだセクハラ被害者の心理と同じだ」と思った。被告はその日のうちに妻と警察署に行き刑事告訴を相談。しかし、妻は被告のいないところで警察官に「無理やり犯されたのではない」と伝えており、警察は告訴を受理しなかった。
被告は自身の父親などにも相談し、民事訴訟や弁護士懲戒請求を検討する。一方でこのころ、枝切りバサミと包丁を購入した。
被告「殺してやりたいと思う一方、そんなことはできないという思いもありました。とりあえず包丁を買えば落ち着くと思いました」
被告はセクハラの相談センターに行くため、被害者からセクハラ行為についての言質を取ろうと決意。「台本」と題した想定問答集を作った。そして8月13日朝、被害者に会うために法律事務所に向かおうと準備していたときに、「ハプニング」が起こる。
被告「妻が『間違って台本を被害者のパソコンに送ってしまった』と言いました。それを聞いて、すぐに被害者に会わなければと思いました」
こちらの手の内が被害者にばれてしまう――。焦った被告は妻とともに法律事務所に向かう。リュックサックにボイスレコーダーと包丁、そしてハサミを入れた。途中のコンビニで「台本」のデータもプリントアウト。虎ノ門駅で思い直して包丁はゴミ箱に捨てたが、ハサミはそのまま持っていった。
午前7時半過ぎ。事務所にはすでに被害者が出勤していた。被害者は「申し訳なかった」と謝ったが、無理やり関係を持ったという認識はなかった、と言った。
被告「被害者は謝ってごまかそうという感じで、妻の苦痛とか、僕の絶望とか感じていないと思いました」
さらに、被害者の机にあった被害者の子どもの写真が被告の怒りの火に油を注ぐ。
被告「被害者が自身の子どもや奥さんも裏切っていると思うと嫌悪感を感じた。こちらの痛みが全然伝わっていないと思い、せめて物理的な痛みは感じてもらおうと殴りました」
プロボクサーのライセンスを持っていた被告の拳は被害者の顔に的中し、被害者が仰向きに倒れる。被告は倒れた被害者のズボンを下ろし、局部を枝切りバサミで切断。妻に救急車を呼ぶよう告げた後、トイレに持っていき、水で流した。
被告「妻にしたひどいことをもう二度とできないように、と思いました」
事件の一部始終は、被告が持参したボイスレコーダーに録音されていた。冒頭陳述によると、「ここどこ」と錯乱する被害者を前に、被告は「切ったんです」などと告げて、笑い声を上げたという。
法廷で読み上げられた調書によると、一緒にいた妻は「さすがにまずいと思ったが、シャキンと音がした。やっぱり切っちゃった、と思った」という。
検察官はハサミについて問いただす。
検察官「ハサミを買う際、店員に『枝を切るハサミがほしい』と聞いたのはなぜですか」
被告「特に理由は」
検察官「(局部を)切断するためですか」
被告「はい」
検察官「なぜトイレに流したのか。切断するだけでよかったのではないですか」
被告「再生手術とかできないようにしようと思ったんだと思います」
一方で、現在の被害者への思いを問われると、被告は「今では妻の話も正確ではなかったとわかっています」と述べ、「本当に申し訳ないことをしてしまった。被害者の家族にも本来受けるべきではない精神的打撃を負わせてしまった」と謝罪した。検察側の冒頭陳述によると、男性はその後も激痛を座薬を使ってやわらげているという。
弁護人はその後の被告と妻の関係について尋ねた。
弁護人「現在、奥さんとの関係は」
被告「毎週2回以上、面会に来てくれますし、100通を超える手紙も送ってくれた。罪を
償い終わったら一緒に生きていきたいと思います」
弁護人「奥さんはどんな存在ですか」
被告「僕の家は幼いころから両親が別居して寂しい思いをしてきた。しかし、妻と生活して、妻が家庭の温かさを教えてくれた。妻の優しい性格が大好きでした」
弁護人「それは今も変わらない?」
被告「はい」
一方、事前に法廷で読み上げられた妻の調書には「せめて名字だけは変え、人生をリセットしたい。かつて諦めた海外の美術系の専門学校に行く夢をかなえたい」とあった。
裁判官が被告に尋ねる。
裁判官「あなたは奥さんの調書は読んでますか」
被告「はい」
裁判官「奥さんの調書は『将来、海外留学したい』という内容で終わっていますが、今はどういう話になっているのですか」
被告「『僕が罪を償ったら、一緒に暮らそう』と事件直後から言ってくれています」
裁判官「婚姻関係を解消しようとは」
被告「一切なっていないです」
法廷で被告は涙ながらに妻への思いをこう語った。
被告「僕は妻のことを自分の命より大切に思っていましたし、現在でも心から愛していま
す」
妻は法廷に立つことはなかった。
16年6月。検察官は「極めて残忍かつ冷酷な犯行だ」と懲役6年を求刑。法科大学院生だった被告に対し、「復讐行為は法治国家の根底を否定する行為とわかっていたはずだ」と非難した。一方の弁護側は「被害者との示談が成立している」として執行猶予付きの判決を求めた。
東京地裁は7月5日、被告に4年6カ月の実刑判決を言い渡した。判決は「妻が被害者から
性的関係を強要されたとは認められず、被害者に刑を左右するような落ち度は認められない」と指摘。「被害者に回復不能の傷害を負わせた結果は重大。経緯に一定のくむべき事情はあるが、刑事責任は相当重い」とした。
*追記 被告側は判決を不服として控訴したが、二審・東京高裁は控訴を棄却。判決は確定した。
2016年7月16日 (塩入彩)
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◇次回は12月13日に掲載予定です。
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