伝説の試合、髙田延彦×ヒクソン・グレイシーの舞台裏を描いたノンフィクション『プライド』がとうとう発売! 延べ50時間以上にわたる当事者・関係者への取材が紡ぎだす、その衝撃の真実とは――。ここでは、ヒクソン・グレイシーとの試合に臨む、当日の髙田延彦の心境を描いた場面を、特別に抜粋して公開します!(第五章「13階段」より)
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東京ドームへは自分のクルマで向かった。
「どうやって東京ドームに行ったのか、ほとんど記憶がないんですよ。そのくせ、目に飛び込んでくる風景ひとつひとつが妙に印象深くって。心のどこかで、ああ、これが見納めか、最後になるのかって思ってたんだろうね」
土曜日の昼間、世田谷から都心に向かう交通の流れはスムースなことが多い。暗澹たる気持ちであとにした自宅から〝最終目的地〟までは、30分ほどしかかからなかった。
三塁側のビジターチームが使うベンチの裏に用意された控室は先乗りしていた祈祷師によって、真っ赤に染められていた。それが力をもたらす色だということで、壁という壁、扉という扉に赤い大布が掛けられていたのである。
「あっちこっちに塩を撒いたり置いたりもしてあって、数珠かなんかでいろいろとやってくださったんですよ。こちらの気が乗っている時であれば、自分がいい状態の時であれば、たぶん、ストレートにエネルギーに変わったと思うんだ。精神が前向きな時であれば、ああいうのって絶対にアリだと思う。もともと、わたしは怪我が多かった時期に、名古屋にいらっしゃる霊的能力が高いことで有名な方にお願いして改名してるような人間だから、そういう目に見えない力みたいなものは、どちらかというと信じてるタイプなのよ。試合の時はいつも左足のレガースの裏にお守りを忍ばせていたし、ビッグマッチでリングに上がる際は塩をひとつまみ持っていくようにもしてた。そういう人間なの。でも、あの時は本当に申し訳ないんだけど、まるで心のヒダの中に入ってきてくれないっていうか、染み込んでこないんですよ」
効果のほどはともかく、祈祷師の女性が髙田のために懸命の祈りを捧げたのは間違いない。だが、この時の髙田の頭の中にあったのは、セルジオ・ルイスの言葉だけだった。
「寝るな、殴るな、蹴るな、組むな、だからね。あの祈祷師の方だけじゃない。世界中のどんだけ凄い霊能者が来ても、破滅への4段論法かまされちゃった人間の気持ちをポジティブにするのは難しかったと思う。なにしろこっちは、これから死刑台に向かおうとしている気分だったんだから」
赤く染まった控室には、Uインターから派生したプロレス団体、キングダムの選手たちが顔を揃えていた。
「みんな心配してくれてたんだろうね。いろいろ手伝ってくれたし、ずっと立って外の様子を見ててくれたり──それははっきり覚えてる。みんなはこっちが見たことがないほどピリピリしてるのはわかるわけだから、物凄く声をかけづらかったと思う。でも、彼らがああやって控室にいてくれたっていうのは、本当にありがたかった」
<中略>
まもなく、運営スタッフから髙田に、「そろそろ時間です」と声がかかった。
赤一色で染められた控室から出てきた髙田を飲み込んだマイクロバスは、東京ドームの構造上、一度ドームの外へ出てからバックステージに直結する入口に向かう。
「小雨が降り出してたのかなあ。バスの窓から、楽しそうな親子連れやカップルの姿が見えるわけよ。あの時、あの瞬間に後頭部と延髄あたりにグーッとのしかかってきた感覚っていうのは、たぶん一生忘れない。うわ、やっぱシャバっていいな、行きたくねえな……って猛烈に思った。でも、バスはゆっくり進んでく。死刑囚を乗せた護送車みたいなもんだよ」
それは、目をつむって綱渡りに挑もうとしていた者が、ふとした拍子に瞼を開いてしまい、眼下に広がる断崖絶壁に気づいてしまったようなものだったかもしれない。
死は、すぐそこに待ち受けている。助けてくれる者は、いない。
孤独を感じたことならば何回もあった。それでも、かくも強烈に自分一人が隔絶されたような感覚を味わったことが、髙田にはなかった。
引き返すことは、もうできない。
再びバスは東京ドームの中に入った。
出番が、来た。
凄まじい歓声と眩いばかりの光がバックステージを包む。紫のガウンをまとった髙田は、フードを目深にかぶり、ゆっくりとリングへ向かった。
花道に続くスロープを下りたところで、キングダムの仲間たちが髙田の行進に加わった。右手に寄り添う形になった安生洋二は拳を振り上げて髙田への声援を、エネルギーを場内から絞り出そうとしていた。
死刑台が、少しずつ、少しずつ近づいてくる。移動するバスの中で感じてしまった絶望は、髙田の中に色濃く残っている。だが、プロレスラーとしての経験が、矜持が、ともすれば溢れ出そうになる恐怖をなんとか封じ込め、死刑台に上る気分だった男の顔を、戦いの場に臨む戦士のそれに近づけていた。
結果として4の字固めで敗れることになる花道でも、誰にもそれを感じさせなかったように──。
赤コーナー下に到着した髙田は、しばし安生と抱き合った。かつてヒクソンに屈した男と、これから挑もうとする男の抱擁。髙田の耳元で安生が何やら囁く。見る者に様々な歴史や物語を思い起こさせる感動的な光景だったが、実は、二人の間にセンチメンタルな感情があったわけではなかった。
「足の裏に松脂をつけすぎちゃったんだよね。ベタベタする感じだったから、安生に抱きつく感じで足の裏をこすって落としてた。安生が言ってたのは、『落ち着いていきましょう』ぐらいのことだったんじゃないかな」
松脂は無事に落ちた。髙田はフードをかぶったままリングに向かって軽く頭を下げ、若手の桜庭和志が広げておいてくれたロープの隙間をくぐってリングに入った。フードを払いのけ、今度は二度、深く頭を下げる。
髙田は、死刑台に足を踏み入れた。
視線の先に、ヒクソン・グレイシーがいた。
冷静沈着でいられるはずのない状況で、しかし、この時の髙田は不思議なぐらい静かな気持ちに包まれていた。
「落ち着いてたっていうのとはちょっと違う。沈んで沈んで沈みきって、海底の静けさっていうのかな、そんな感じだった。ああいう心境になったのは後にも先にもあの時だけだね。リングインしてからの光景は、いまでも絵に描けるぐらい鮮明に残ってる。対角線にいるヒクソンの姿。黒光りした身体に後光がさしてて、凄くいい眼をしてた。それと、国歌吹奏。へえ、ブラジルの国歌ってこんなんだったんだって、妙に感心してたのを覚えてる」
まだサッカーの日本代表はワールドカップを知らず、一般的な国歌に比べるとずいぶんと長く、また音階の複雑なブラジルの国歌を聞いたことのある日本人は圧倒的に少数派だった。髙田の感心は、そのまま東京ドームに集まった4万6863人の驚きでもあっただろう。
ブラジル国歌は吹奏だったが、君が代は独唱だった。歌い手を務めたのはロックバンドSHOW‐YAのボーカル寺田恵子である。
「不思議なもので、あそこで初めて聞いたブラジル国歌は鮮烈に記憶してるのに、君が代はほとんど覚えてないんだよね。いまになって思うと、自分の中のセンサーが、ヒクソンに関係あることだけは非常に鋭敏にキャッチしていた反面、その他のことや自分に関することには凄く鈍感になっていた気がする」
君が代の独唱が終わった。リングアナが両者の名前を読み上げた。
まもなく戦いが始まる。始まってしまう。
いかにしてヒクソンと戦い、倒すのか。髙田には何のアイデアもなかった。
アントニオ猪木に憧れ、ライオンをモチーフとした新日本プロレスのエンブレムを心底誇りとしてきた男は、気の遠くなりそうな後悔とともに悟りつつあった。
髙田延彦は、ライオンになることを望んだ男だった。ライオンになるために、『ライオン・キング』を演じてきた男だった。シンバのような存在になるためにしてきた努力なら、誰にも負けない自信があった。
だが、目の前にいるのは、本物のライオンだった。
武器を持たない人間対ライオン。
勝てるはずが、ない。
(第六章「20年後のライオン」に続く)