自分なら一線を越えずにいられたか? 何が善で何が悪なのか? 記者が紙面の短い記事では伝えきれない思いを託して綴る、朝日新聞デジタル版連載「きょうも傍聴席にいます。」。毎回大きな反響を呼ぶ人気連載が新書『きょうも傍聴席にいます』としてまとまりました。記者が見つめた法廷の人間ドラマをお届けします。
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認知症の母を長い間二人で介護していた父と娘。病気で自分も体が不自由になった父は、娘に言った。「一緒に死のう」。娘は両親を車に乗せ、川へと向かった――。
2016年6月20日、さいたま地裁の201号法廷。母に対する殺人罪と父の自殺を幇助(ほうじょ)した罪に問われた女(47)が被告として証言台に立った。髪を後ろで一つに束ね、白いシャツに黒のズボン姿。
裁判長「起訴状の内容に間違いはありますか」
被告「ないです」
起訴状などによると、被告は15年11月21日午後6時ごろ、埼玉県深谷市の利根川に親子3人で軽乗用車ごと入水。母(当時81)を溺れさせて殺害し、父(当時74)の自殺を手助けしたとされる。
冒頭陳述や被告人質問から事件をたどる。
被告は三姉妹の末娘として生まれた。父は被告が幼いころに家出。母が身一つで3人を育てるのは厳しく、次女は養子に出された。被告は高校を中退した後、すしチェーン店などいくつかの職を転々とした。20年ほど前、父が家に戻り、被告と両親の3人で暮らすようになった。
03年ごろ、60代後半になっていた母は認知症とパーキンソン病だと診断される。父と被告による介護生活が始まった。当時被告は菓子製造会社で働いていたが、仕事と介護の両立は厳しく、精神的に不安定になって無断欠勤をし、事件の約3年前には退職。以後、一家は月給18万円ほどで新聞配達をしていた父の収入に頼るようになった。
被告人質問で弁護人は当時の母の様子を尋ねた。
弁護人「どんな会話を?」
被告「会話にはなりません。何年も前から私が娘とわかっていません。『どちら様?』とか『こんちくしょう』とか暴言を言われたこともありました」
弁護人「介護をやめたいと思ったことは?」
被告「認知症だから仕方ないと思いました。認知症になる前は明るい母で大好きでした。認知症になってからも大好きでした」
被告の二人の姉が、情状証人として出廷し、母と三女の関係について語った。
長女「母との絆は深く、献身的な姿勢はまねできなかった。私は父を『お父さん』と呼べなかった。妹をうらやましく感じました」
次女「三姉妹で妹は一番母に似ていました。いつも二人は一緒。密度の濃い関係に映りました」
被告は真っ赤になった鼻にハンカチをあてた。涙が落ちるのを防ぐかのように天井を見上げた。
二人の姉は「介護に対する不満、愚痴は一切聞かなかった」と口をそろえた。
14年9月ごろ、母は寝たきりの状態に。父も仕事の傍ら、入浴や排泄(はいせつ)の介助をかいがいしくしていたという。被告は法廷で父について「一家の大黒柱。大きな存在でした」と語った。
だが、15年9月ごろ、父が頸椎(けいつい)圧迫により体調を崩した。徐々に症状は悪化し、11月に入ると新聞配達で使うバイクの運転が難しくなった。食事やトイレも、一人ではできなくなり、11月12日、退職。一家の収入が途絶えた。
5日後、被告は市に生活保護を申請した。検察側によると、受給が認められれば月20万円弱が支払われ、母の介護支援や父の医療扶助なども受けることができたはずだ、という。
だが、翌日、父は言った。「死にたいんだけど、一緒に死んでくれるか。お母ちゃんだけ残してもかわいそうだから3人で一緒に死のう」
検察側は被告人質問で当時のやりとりについて尋ねた。
被告「すぐに『いいよ』と答えました」
検察官「止めようとは思わなかったんですか」
被告「あまり自分自身、死への恐怖心がなかったんです。当時は死にたがっていたんだと思います」
検察官「説得しようとは思わなかったのですか」
被告「全然考えませんでした。お金の関係は何とかなるという認識でした」
検察官「父も手術すればよくなるはずだし、心中しなくても大丈夫と思うのが普通だが?」
被告「よくなるとは思えないくらい症状が悪かったんです。父も手術しても寝たきりになるかもしれないと言っていました」
検察官「なぜ心中しようと思ったのか?」
被告「父は、すべてがなくなって解放される。楽になる。体調悪化の苦しみ、生活保護の調査を受けたこと、母の介護。すべて込みで楽になる。私については……わかりません。今は、父に(心中を)言われなければ死ぬつもりはなかった、と思います」
検察官「母を死なせたことについては?」
被告「私と父が(死んで)楽になり、残された母が施設に入っていじめられたらかわいそう。家族だから一緒じゃないと意味がない、と父に言われました」
「懇願」の翌19日、市役所の職員が自宅を訪れた。生活保護に関する面接だった。生い立ちや家族の状況について聞かれた、と被告は説明した。
被告「今までの人生、高校を中退し、仕事を転々としました。親子で同じような人生を歩んでいるなあと思った。惨めで、死にたい気持ちが高まりました」
心中を言い出した父は「(手術を受ける予定の)30日までに心中できれば」と言っていた、という。しかし被告は「行くのを早めるよ」と言った。
被告「死ぬのを早めたのは私です」
事件当日の21日。なお「明日にしよう」とためらう父に被告は往生際が悪いと腹を立て、「そんなんじゃ置いていくよ。死ぬ気あるの」などと迫った。昼過ぎ、両親を車に乗せ、以前家族で行ったことがあった群馬県の草木ダムへ。
被告「ダムへ車でダイブできればそこでもよかったんですが、適当な場所がなくて。父は
『列車に突っ込もう』とも言っていましたが、遺族に巨額の賠償が請求されるって聞いていたので、やめました」
自宅近くの利根川付近に戻り、暗くなるまで待って、川へ。直前、父の「ごめんね」という声が聞こえた。車ごと川に入ったが、水深1.1メートル付近で車が前に進まなくなった。足元から水が車内に入ってきた。
被告「母は『冷たいよ、冷たいよ』と何度か言っていました」
被告は運転席側のドアを開け、母、父の順に外へ引っ張り出した。
被告「母は『死んじゃうよ、死んじゃうよ』って手足をバタバタさせました。私は『ごめんね、ごめんね』としか言えなかった」
父とはいつの間にか離れてしまった。
被告「父には突き放された感じがしました。周りが暗くて、探せなかった」
母だけは離すまいと服を強く握った。すると、動きが止まった。自分の口にも水がどんどん入ってきた。苦しい。吐く。楽になる。また、苦しくなる。流されるうちに、右足が浅瀬をとらえた。一人でうずくまり、空を眺めたり、歌を歌ったりして夜を明かした。両親の命は失われた。
被告人質問の終盤、裁判員や裁判長から質問が続いた。
裁判員「事件の結果についてどうお考えですか」
被告「父は具合が悪くなる一方で、自分を惨めに感じているだろうなと思っていた。父が死に切れたことはよかったと思っている」「申し訳ないですが、私と母が死んで、今ここ(証言台)にいるのが父だったら、その方が残酷だった。生き残ったのが私でよかったと思います」
裁判長「重大な行為をした自覚はあるのか」
被告「生き残ったが故に、この罪に問われていると思います」
6月21日の論告求刑公判。
検察側は「他に取り得る手段があり、犯行を思いとどまる機会もあった。事件の重大性に向き合っていない」と懲役8年を求刑。
一方、弁護側はこう訴えた。「心中のきっかけは経済的な面ではない。生きる支えを失った父の姿を見て、被告は死んだ方が幸せだと思った。母を巻き込んだのは、大事に大事にしていたことの裏返しだ」。執行猶予付きの判決を求めた。
最終の意見陳述。被告は時折嗚咽(おえつ)を漏らしながら、声を絞り出した。
「今思えば、私と母は相似形の親子でした。父も含めれば三位一体の関係だった」
「いつの日か世間に出て、『あのとき一緒に死んでいればよかった』と思う場面があるかもしれないが、何があっても生きていくことが、両親への供養になると思っています」
「姉の証言がありましたが、私も実際、父を『お父さん』と呼んだことはありません。きょうは両親の月命日で……私のわがままなんですけど……」
涙で鼻がつまる。一呼吸置いて、こう言った。
「お父さん、お母さん、こんな私ですけど、これからもどうか見守っていてください」
6月23日の判決は懲役4年の実刑。「社会的な援助を受けて生きることもできた。生命を軽視していたと言わざるを得ない」。献身的な介護、深い親子関係を認めながらも、執行猶予は付けなかった。
宣告後、裁判員と裁判官からのメッセージが告げられた。
裁判長「仲良く暮らしたときのお父さん、お母さんの顔を忘れることなく、毎日を大切に生きてください」
「ありがとうございました」。被告は深々と頭を下げた。
検察、弁護側双方とも控訴せず判決は確定した。
2016.8.5 (金子智彦)
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◇次回は12月20日に掲載予定です。
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