今年もクリスマスシーズンが到来。きれいなイルミネーションで、一年で一番街が輝きだす季節です。
クリスマスは、一般的にイエス・キリストの誕生日だといわれています。みんなで集まって「メリークリスマス!」と言って乾杯したりケーキを食べたり、プレゼントを贈り合ったりするイベントでもあります。
しかし、日本人の大多数はクリスチャンではありません。キリスト教について、イエスと聖書について、あまりよく知られていないのが現状です。
そこで、『知ったかぶりキリスト教入門』の著者で、さまざまな宗教を平易に説くことで定評のある宗教研究者の中村圭志さんが、キリスト教の最低限の知識をQ&A方式で解説。本書より、一部を抜粋してお届けいたします。
Q なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか?
A キリスト教が世界に広まっているのは、西欧列強による植民地化の影響が大きいと思われます。日本は植民地化されなかったので、異教の定着が困難なのでしょう。
明治以来、カトリック、プロテスタント、ロシア正教会の大勢の宣教師が日本にやって来て宣教を続けましたが、信者数は百万人前後を推移しています。どうもあまり伸びない。
日本にキリスト教が根付かない理由については色々言われていますが、「国民性」とか「日本人の精神」のようなものを持ち出して説明する際には、注意を要することがあります。
Q11の世界地図を見ても分かるように、宗教は概ね地域ごとに勢力圏が決まっています。個人単位では、世界各地にさまざまな宗教の信者が入り交じって暮らしていますが──日本にもクリスチャンがおり、アメリカにも禅センターがあります──マクロに見れば、土地土地の主流文化として、伝統的な宗教が居座っています。
大航海時代以降、ヨーロッパ人は世界各地に進出し、植民地化を推し進め、キリスト教の宣教師を送り込みました。
一方では軍事力で現地民を支配し、奴隷的地位に貶(おとし)めつつ、他方では愛を説いてキリスト教を布教しました。便利な「政教分離」というか、このダブルスタンダードのおかげで、キリスト教を世界各地に広めることができたわけです。
もちろん宣教師の気持ちは純粋だったでしょうが、その純粋な気持ちを世界に広げる支えとなったのは政治的暴力です(公平を期すために言い添えますが、日本の仏教徒も戦前はこれを真似してアジアに布教などを行なっていました)。
世界各地にキリスト教が広まったとはいえ、もとから大宗教が文化的に根付いていた地域では、基本的にどこでも大きな抵抗があったことは確かです。中東でも、インドでも、中国でも、人々はキリスト教をすんなりと受け入れたわけではないのです。とくにイスラム圏の抵抗は今も昔も強いでしょう。
(そもそもヨーロッパだって古代から中世にかけての一〇世紀以上をかけてようやくキリスト教化したのです。いや、中世末期になってもまだ異教の要素は払拭できませんでした)
「日本人論」的解釈はあてにならない
ですから、日本人がキリスト教に対して冷淡であったとしても、それが格別日本人的な特質だというわけではありません。
ときどき、「日本人は宗教を病気治しの類(たぐい)だと思っている。だからキリスト教が分からんのだ」と考えているエリート主義的なクリスチャンがいます。
しかし、世界各地のキリスト教は、病気治しのようなあやしげなことをやっています。日本のキリスト教はあまりこれをやらない。明治に殿様を失った武士階級がキリスト信仰に転じ、武士のエリート意識をキリスト教に持ち込んだからかもしれません。
日本と対照的に、韓国にはクリスチャンが多いのですが、これは、日本の植民地となったあとで朝鮮戦争を迎えたことが大きいようです。つまり地元の儒教や仏教が勢力立て直しを行なう暇もなく、戦争となってしまった。そこに訪れた宣教団が人々の精神的な支えとなったということです。
日本にクリスチャンが少ないのは、簡単に言えば、日本が植民地化を逃れ、よくも悪くも国家的・国民的アイデンティティを保つことができたことが大きな理由として働いていると思われます。
「信仰」はあくまで個人の心の問題です。しかし、ある個人がある宗教にたどり着くかどうかは、社会的環境によります。国家とか植民地とか、宣教団が大挙して押し寄せるとか、地元の宗教組織がどうなっているかとか、そういう政治的な次元がモノを言うのです。
日本にクリスチャンが少ないのは、日本人のメンタリティのせいではない、と考えるべきでしょう。
いくら仏教のお坊さんが欧米で布教活動を行なっても、たぶん欧米における仏教徒の数はそんなに増えないだろうと思います。それは欧米人のメンタリティのせいというよりも、政治的・社会的な環境のせいです。
仏教にも、キリスト教にも、イスラム教にも、ぜひこれでなければ、というほどの絶対的説得性はないのですから。