クラシック音楽において「第九」といえば、ブルックナーでもなくマーラーでもなく“ベートーヴェンの”交響曲第九番のこと。演奏時間は70分と長く、混声合唱付きで、初演当時は人気のなかったこの作品が「人類の遺産」となった謎を追う。(『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』中川右介)
「第九」はいつ書き始められたのか
後に「第九」と呼ばれ、音楽史上、そして音楽市場最大の作品となる交響曲が、ベートーヴェンの脳裡(のうり)に浮かんだのはいつだったのだろう。
確認できる最も早い時期は、一七九二年十月、二十二歳になろうとするベートーヴェンがボンを出てウィーンで暮らす直前のことだ。彼は友人に「シラーの頌歌(しょうか)《歓喜(かんき)に寄(よ)す》に曲をつけたい」と話したという。この時点では、交響曲にしようとは考えていない。そもそも一七九二年時点のベートーヴェンは、声楽曲は書いていたが、交響曲はまだ一曲も書いていない。
《歓喜に寄す》はシラーが一七八五年、二十六歳の年にドレスデンで書いた詩だ。フランス革命の四年前である。革命に直接の影響はないが、そういう時代精神を背景として書かれたものだった。書かれた翌年の一七八六年にはドイツの各都市で書き写されたものが出回っていたらしく、十六歳になる青年ベートーヴェンもこの時点で読んでいたと推測される。そして彼の脳裡に、これを音楽にしたいとの思いが芽生えるのである。
友人に宣言した後、ベートーヴェンの頭の中では、このアイデアが浮かんでは消えていたことになる。確認できるものとしては、一七九八年と九九年のスケッチ帳に、《歓喜に寄す》の一節にメロディを当てた、その断片が書かれているが、これは出来上がった「第九」のメロディとはまるで違うものだ。「第九」の第四楽章のメロディと似たものがスケッチ帳に現れるのは、一七九四年から九五年にかけてで、歌曲《相愛》に似たメロディがある。
一八〇八年に書かれた、「ピアノと合唱とオーケストラのための幻想曲」、通称「合唱幻想曲」こそが、「第九」に直接つながる「習作」とされる。習作といっても、現在でもコンサートで演奏される立派な作品である。しかし、「第九」を知ってしまった人の耳には、習作と聴こえてしまう。
ベートーヴェンが交響曲第七番と第八番に取り組んでいる頃の一八一二年のスケッチ帳には、「歓喜、美しき神々の火花、乙女の序曲を仕上げる」など、後の「第九」につながると思われるメモが書かれている。また、この年に書かれた《シュテファン王》序曲は「第九」によく似ている。
このように、浮かんでは消えていたものが、いよいよ具体化するのが、一八一七年だったようで、翌一八年には第一楽章のアウトラインができていた。しかし、もうひとつの大作「ミサ・ソレムニス」の仕事が始まり、さらに、ピアノ・ソナタの最後の三曲(第三十番から第三十二番)の作曲に取り掛かかったため、交響曲は中断してしまう。
それが再燃するのは、一八二二年十月にロンドンのフィルハーモニック協会から新作交響曲の依頼が届いたからだ。経済的にも困窮(こんきゅう)していたベートーヴェンはこの話に乗り、交響曲を完成させようと考える。
「第九」の構想を抱いていたところに、注文が来たので、ベートーヴェンはようやく書く気になったのだ。だが、ロンドンから注文があった時には、声楽付交響曲にする予定はなかったのではないか、ロンドンへは別の、第十番になったかもしれない曲を書くつもりだったのではないかとの説もある。
翌一八二三年七月の、後援者で弟子でもあるルドルフ大公宛ての手紙には、「フィルハーモニック協会のための交響曲を作曲しており、二週間ほどで完成させたい」と書いている。実際には、あと二週間では完成しないのだが、この時点でかなり出来上がっていたのであろう。
しかし、ベートーヴェンは体調を崩してしまい、バーデンで休養する。快復(かいふく)してウィーンへ帰ってくるのは十月で、いよいよ「第九」は完成へ向かう。十二月の誕生日でベートーヴェンは満五十三歳になった。
そして、年が明けて、一八二四年。カロリーネ・ウンガーが彼の許を訪ねた一月の下旬にはほぼ完成していたのだ。
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