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第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話

2017.12.28 公開 ポスト

当時のウィーンは“肌触りのいい”ロッシーニがブーム。「第九」は支持されないのでは…ベートーヴェンは悲観する中川右介

クラシック音楽において「第九」といえば、ブルックナーでもなくマーラーでもなく“ベートーヴェンの”交響曲第九番のこと。演奏時間は70分と長く、混声合唱付きで、初演当時は人気のなかったこの作品が「人類の遺産」となった謎を追う。(『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』中川右介)

 

ロッシーニ・ブーム

 ベートーヴェンが「第九」を書いていた頃のウィーンは、ロッシーニ・ブームの最中(さなか)だった。

 もともとウィーンは、イタリア・オペラのほうがドイツ・オペラよりも人気がある都市だった。モーツァルトの時代、ウィーン音楽界に君臨していた作曲家はイタリア人のサリエリであり、モーツァルトの代表作となるダ・ポンテが台本を書いた三作――《フィガロの結婚》《コジ・ファン・トゥッテ》《ドン・ジョヴァンニ》も、「イタリア語オペラ」である。

 その後もウィーンでのイタリア・オペラ全盛期は続き、ベートーヴェンはそれに対抗すべく《フィデリオ》を書いたが、一八〇五年の初演は失敗してしまう。《フィデリオ》は改訂した再演から、どうにか支持を得たが、ベートーヴェンのオペラはこれ一作で終わる。彼はオペラ作曲家としては大成できなかった。

 一八一〇年代に入ると、カール・マリア・フォン・ウェーバーにより、ドイツ・オペラの巻き返しが始まるが、それも長く続かない。一八一六年に、イタリアの興行師ドメニコ・バルバイヤがウィーンへオペラの一座を率いてやって来ると、たちまち大評判となり、またもイタリア・オペラの大ブームとなるのだ。この成功を受けて、バルバイヤはウィーンに落ち着くことにし、一八二一年からケルントナートーア劇場を借りて、イタリア・オペラの興行を打つことになった。

 このバルバイヤによるイタリア・オペラ興行で最も成功したのが、ロッシーニ作品だった。ロッシーニ作品のウィーンでの上演は、一八二二年四月十三日初日の《ゼルミーラ》に始まった。以後、五月七日から《マティルデ・ディ・シャブラン》、五月三十日から《英国女王エリザベッタ》、六月二十一日から《泥棒かささぎ》、七月八日から《リッチャルドとゾライデ》と、次々と上演された。

 ベートーヴェンが「第九」に取り組んでいたのは、このロッシーニ・ブームの最中だったのである。

 ジョアキーノ・ロッシーニは一七九二年にイタリアのペーザロで生まれた。ベートーヴェンよりも二十二歳下で、ウィーンで大ブームを起こした一八二二年にはまだ三十歳だった。この二人は、ロッシーニがブームとなっている一八二二年春に対面した。しかし、ベートーヴェンは耳が不自由、ロッシーニはドイツ語を話せない――つまり、あまり実りのある会話はできなかった。ロッシーニがウィーンの巨匠を表敬訪問した、というだけの面会だったようだ。

 それでも、お互いにいい印象を持ったようではある。ベートーヴェンは一八二四年に知人にこう語っている。「ロッシーニは才能がある、旋律の豊かな作曲家です。彼の音楽は、時代の浮き浮きした、肌触(はだざわ)りのよさを好む気分に適合しています。彼の生産力はたいしたもので、ドイツの作曲家が一年かかるものを、数週間で書いてしまいます」。

 これらの発言は皮肉ともとれそうだが、ベートーヴェンがロッシーニを敵視し、ライバルと感じていたわけではなさそうだ。年齢も父子ほど離れているし、ベートーヴェンはロッシーニを自分とは異なる才能の持ち主として評価していたようだ。

 しかしベートーヴェンは、そのロッシーニに熱狂しているウィーンの人々には絶望感を抱いていた。ウンガーをはじめとする知人、友人たちは、ベートーヴェンの音楽を支持してくれるが、ウィーンの一般の聴衆はどうであろうか。もう自分の音楽はウィーンでは必要とされていないのではないか。ベートーヴェンはそんなふうに感じていた。

 

 ベートーヴェンは歌手ウンガーと会った際には、バルバイヤ一座のイタリアの歌手たちを賞賛し、「彼らのためにイタリア式オペラを書きたいものだ」と、自分も売れるものを書きたいとの本音を漏(も)らしている。

 一八二四年一月、ウンガーと会った前後、ベートーヴェンはウィーン楽友協会に宛てて書いた手紙で、完成している「ミサ・ソレムニス」と、もうすぐ出来上がる新しい交響曲を、協会で上演するつもりがあるかどうか打診した。

 楽友協会は音楽愛好家の集まりで、その会員自身が演奏もするが、コンサートの主催団体でもあった。さらには付属の音楽学校も設けるようになり、これがウィーン音楽院へと発展する。やがて一八七〇年に建てられる楽友協会ホールは、ウィーン・フィルハーモニーの本拠地にもなる。楽友協会はこのようにウィーン音楽界で重要な役割を果たす団体だった。ベートーヴェンは楽友協会からオラトリオの作曲を依頼されていたが、それが滞(とどこお)っており、その言い訳の手紙で、「ミサ・ソレムニス」と「第九」の上演の可能性を打診したのだった。しかし、これには色よい返事がなかったらしく、ベートーヴェンはウィーンにいったん見切りをつけた。

 彼が次に打診したのは、ベルリンだった。

関連書籍

中川右介『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』

クラシック音楽において「第九」といえば、ブルックナーでもマーラーでもなく“ベートーヴェンの”交響曲第九番のこと。日本の年末の風物詩であるこの曲は、欧米では神聖視され、ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、歴史的意義の深い日に演奏されてきた。また昨今は、メータ指揮のN響で東日本大震災の犠牲者追悼の演奏がなされた。ある時は祝祭、ある時は鎮魂――そんな曲は他にない。演奏時間は約70分と長く、混声合唱付きで、初演当時は人気のなかったこの異質で巨大な作品が「人類の遺産」となった謎を追う。

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第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話

ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、欧米では歴史的意義の深い日に演奏されてきた「第九」。祝祭の意も、鎮魂の意も持つこの異質で巨大な作品が「人類の遺産」となった謎を追う。

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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