大喝采を浴びたはずの「第九」の初演。だが興行としては失敗だった。ベートーヴェンはショックを受ける。彼にとって作曲はビジネスだった。そして5月23日(日)12:30〜、再演されることになる。(『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』中川右介)
失敗した再演
崇高(すうこう)な人類愛を謳(うた)い上げたはずのベートーヴェンが、演奏会の収入という低次元のことを気にするはずがない――そう思いたい方も多いだろうが、ベートーヴェンとて霞(かすみ)を食べて生きているわけではない。彼にとって、作曲はビジネスだった。人類愛と収益とは矛盾しないのだ。
入場料収入は二二〇〇フロリンしかなかった。その結果、劇場代、写譜代、その他の事務的経費を払ってしまうと、四二〇フロリンしか残らなかった。最初にアン・デア・ウィーン劇場で開催しようとした際の試算では、四〇〇〇フロリンの総収入で、二〇〇〇フロリンは儲かるはずだったが、収入が半減し、利益は見込みの二割しか上がらなかったのだ。
ベートーヴェンは、秘書のシントラーと劇場が横領しているのではないかと疑った。どうも、弟ヨハンが、ベートーヴェンに「兄貴は騙(だま)されている」と吹き込んだらしい。一時はシントラーとの間が険悪な雰囲気となった。
誤解がどの程度、解けたのかは分からないが、シントラーたちの勧めで、ベートーヴェンは「第九」の再演を了解した。しかし、彼はあまり乗り気ではなかった。
再演は五月二十三日、日曜日の十二時半から開催されることになった。会場はホーブルク宮殿のレドゥーテンザール、ただしオーケストラと歌手たちはケルントナートーア劇場のデュポールが提供し、興行もデュポールが担うことになった。収益はベートーヴェンと劇場とが平等に折半することとするが、赤字になっても、ベートーヴェンは一二〇〇フロリンを保証金として得るという条件だった。
プログラムは変更された。「大序曲」はそのままだが、その次に一八〇二年に書かれた三重唱曲《不信仰者よ、おののけ》、「大賛歌」こと「ミサ・ソレムニス」は〈キリエ〉だけになってしまった。そしてその後に、なんとロッシーニの《タンクレーディ》のアリア〈ひどい胸騒ぎ〉があって、最後が「大交響曲」である。ロッシーニのファンも呼び込もうという思惑だったが、これは外れた。ロッシーニ・ファンはその一曲だけのために、わざわざ彼らが苦手とするベートーヴェンを聴きには来なかった。
その日はとても天気がよく、野外に出かけた人が多かったらしく、客席は半分も埋まらず、八〇〇フロリンの赤字となった。ベートーヴェンとしては、ロッシーニの曲が混ざるし、「ミサ・ソレムニス」は一曲に減らされ、さらに、二十年以上前の三重唱曲なのに「新曲」とポスターには書かれるなど、開演前から不満があったのに、興行として惨敗したことで、落ち込んだ。もともと彼は再演に反対だったのだ。
デュポールとしては払いたくなかったかもしれないが、約束は約束なので、保証金一二〇〇フロリンを払った。しかし、ベートーヴェンはもっと儲かると期待していたので、この金額にも不満だった。
五月七日の初演の興奮はどこに消えてしまったのだろう。聴いた人々はその場では興奮したものの、友人や知人たちに、「素晴らしい曲で感動した」と口コミで広めなかったようだ。あるいは、「長いだけで、つまらない曲」と言いふらしたのかもしれない。
そうでなければ、ここまで惨敗するはずはない。
ともあれ演奏会では稼げないとの結論が出た。となれば、ベートーヴェンとしては楽譜を出版し、収入を得るしかない。
出版までの迷走
初演前に、「第九」や「ミサ・ソレムニス」の出版について、ベートーヴェンはパリのシュレージンガー社とライプツィヒのプロープスト社との間で交渉していたが、パリとの話は立ち消えになったようだ。
プロープスト社との間では、「第九」出版の前に、ピアノ伴奏付きの歌曲三曲と、ピアノ独奏用のバガテル六曲、そして《献堂式》序曲とそのピアノ用編曲を書くという契約を交わし、同社は八月に前金を送ってきた。だが、これらの作品はベートーヴェンが弟から借金した時に担保として渡していたので、プロープスト社に渡すことができなかった。さらに、その間にウィーンのペータース社との間で「ミサ・ソレムニス」と「第九」出版の約束もなされていたらしい。こんなことではプロープスト社との話はまとまるはずがない。詐欺で訴えられてもおかしくないくらいだ。
それでいて、「第九」はペータース社からも出版されないのだ。こことの約束がどのレベルのものだったのかは、分かっていない。
次に登場するのがマインツのショット社である。「第九」と「ミサ・ソレムニス」は結局、ここから出版される。実はベートーヴェンは三月からショット社とも手紙のやりとりをしていた。つまり、四社を相手に売り込んでいたことになる。最後に残ったのが、ショット社だった。
七月にショット社との間で合意した金額は、これまでと同じ、「ミサ・ソレムニス」が一〇〇〇フロリン、「第九」が六〇〇フロリンだった。
献呈は誰に
「第九」の出版社はショット社と決まっても、なかなか出版されなかった。ロンドンのフィルハーモニック協会との約束があったためだが、もうひとつの理由は、献呈先が決まらなかったからだ。
当時は「印税」という考え方がないので、楽譜を一度売ってしまえば、それで終わりだ。そこでベートーヴェンはさらに収入を得ようと、「献呈」というビジネスモデルを確立していた。
ベートーヴェン作品の多くは、王侯貴族に「献呈」されている。たとえば、ピアノ三重奏曲第七番は、ルドルフ大公へ献呈されたので、「大公トリオ」というニックネームが付けられた。
この「献呈」だが、ベートーヴェンは親しい人や世話になった人へ、感謝の気持ちをこめて献呈していたのではない。見返りを期待して献呈していたのだ。献呈する相手は金持ちの王や貴族たちだ。献呈されれば、出版された際にその名が表紙に載る。これほど名誉なことはないと王たちが思ってくれれば、このビジネスは成功する。そして、ベートーヴェンの名声はすでにその域に達していたので、王侯貴族たちは献呈を打診されると、喜んで受諾したのだ。そういう慣習が以前からあったわけではない。ベートーヴェンがこのシステムを創り出したのだ。
ベートーヴェンは宮廷に雇われたことのない、音楽家人生の最初からフリーランスとして活動した人物だが、それを支えていたのが、彼が開発した献呈商法だった。いまでいう一種の「送り付け商法」である。
ベートーヴェンは音楽ビジネスにおける革命家でもあったのだ。
第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話
ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、欧米では歴史的意義の深い日に演奏されてきた「第九」。祝祭の意も、鎮魂の意も持つこの異質で巨大な作品が「人類の遺産」となった謎を追う。