ベートーヴェンの死(1827年)から「第九」の本当の不滅の生涯は始まる。だが各地で演奏はされていたものの、いまひとつその評価は定まらなかった。難曲すぎて演奏面での拙さもあったらしい。演奏史上の初期の功労者は、指揮者のアブネックとメンデルスゾーンのふたりだがもう一人、天はこの男を準備していた。(『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』中川右介)
一八四六年、ニューヨーク――フィルハーモニック
一八四六年、「第九」は大西洋を渡った。
ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会に登場したのである。五月二十日のキャッスル・ガーデンでのコンサートで、ジョージ・ローダーの指揮のもと、歌詞は英語に訳されて歌われた。これがアメリカ初演、ニューヨーク初演、そしてニューヨーク・フィルハーモニック初演だった。
ニューヨーク・フィルハーモニックは、ウィーン・フィルハーモニーと同じ一八四二年に結成された。ヴァイオリニストで指揮もしたウレリ・コレッリ・ヒルが、友人、知人の音楽家たちに呼びかけて、「ザ・フィルハーモニー・シンフォニー・ソサエティ・オブ・ニューヨーク」を結成、これがこんにちまで続くニューヨーク・フィルハーモニックの起源とされる。
このソサエティは協同組合組織で、会員たちがお金を出し合って演奏会場を借り、諸経費を払い、コンサートを開いたのだ。利益が出れば会員たちに配分された。当初は年に四回の演奏会が開かれていたが、ほとんど利益は出ず、アマチュア音楽家の趣味の同好会的なものだった。会員も固定されていなく、演奏会のたびに募集されていた。
そのフィルハーモニー・シンフォニー・ソサエティの五年目のシーズンに「第九」が登場したのである。しかし、この時もまだニューヨーク・フィルハーモニックは、こんにちのような常設の楽団ではない。とてもプロの楽団とは言えないが、それでもニューヨークの、つまりはアメリカ合衆国全体のなかでは高水準の演奏団体だった。
十九世紀半ばのこの時点では、ウィーン・フィルハーモニーも年に数回の演奏会を開いていただけで、ベルリン・フィルハーモニーはまだ結成されていない。オーケストラはヨーロッパの各都市に存在したが、それらは歌劇場の専属あるいは宮廷楽団であり、日常的にはオペラや宮廷の行事で演奏していただけだ。ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団のようなシンフォニー・コンサート専門の常設オーケストラは、まだごく僅かしか存在していない。
「第九」は、それを演奏するオーケストラよりも先に誕生していたのだ。
「第九」を音にできるオーケストラは一八四〇年代になって、ようやく誕生した。しかし、「第九」を指揮できる真の指揮者は、メンデルスゾーンぐらいしかいなかった。そのメンデルスゾーンは、一八四七年三月を最後にステージに姿を見せることはなく、この年の十一月に三十八歳の短い生涯を終えてしまった。すべてに恵まれた音楽家に、天は長寿だけは与えなかったのである。
このまま「第九」は、得体の知れない長い曲として、理解されないまま埋もれてしまうのだろうか。
いや、そうはならない。
天は、準備していた。「第九」の真の価値を世に知らしめる能力を持つ男が待機していた。その男はメンデルスゾーンが亡くなる前年、一八四六年に「第九」を指揮し、大成功していたのだ。
その名を、リヒャルト・ワーグナーという。
第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話
ヒトラーの誕生祝賀、ベルリンの壁崩壊記念など、欧米では歴史的意義の深い日に演奏されてきた「第九」。祝祭の意も、鎮魂の意も持つこの異質で巨大な作品が「人類の遺産」となった謎を追う。