1563年7月、31歳のポルトガル人宣教師フロイスは、夢にまでみたジャパゥンの地を踏んだ。熱病や火事、迫害など絶体絶命の危機に晒されながらも、徐々に協力者を得て布教を進めていく。
しかしあるとき、最大の理解者であったキリシタン大名・大村純忠が、改宗に反発する家臣たちに殺されたとの知らせを受ける。布教の拠点であった町は焼け、略奪や殺人が横行する混乱のなか、ついにフロイスも囚われの身となるが――。
行く手を阻む幾多の苦難は、神が与えた試練か、悪魔の妨害か!?
構想・製作に9年の月日を費やした、清涼院流水さん渾身の歴史長編『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』が発売になりました。
本書は、戦国期の日本に約30年滞在し、信長とも親交があったポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが遺した膨大かつ精細な記録『HISTORIA DE JAPAM(日本史)』を下敷きに描く、圧倒的スケールの歴史長篇です。
この作品に至る経緯と想いと込めた「序文」を、取材時に著者が撮影した写真とともに全文一挙掲載します!
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序文 四百年の時を超えて
十六世紀にイエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(一五三二─一五九七)が書き遺した『日本史(イシュトーリア・デ・ジャパゥン)』(Historia de Japo)は、我が国の戦国時代を数十年という長期間に亘り「異国人からの視点」で客観的に捉えた史料として唯一無二の存在感を放ち、歴史的な価値も非常に高いものです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑が世に出る以前から天下人となっていくまでの、日本史上もっとも波瀾に満ちた時代についての、それは、信じられないほど克明な記録なのです。
健筆で知られたフロイスの遺したこの原稿は史料として精確であるものの、現存する写本は二千五百ページ以上、日本語のテキストに換算すると二百四十万字もの(一般的な書籍なら十数冊、あるいは二十冊以上に相当する)分量、しかも濃密な文体で書かれているために、表面をなぞって歴史的事実をざっと流し読みするだけでも数か月かかります。内容をきちんと吟味しながら精読するのであれば、全編を読み終えるのに一年以上の時間が必要となるでしょう(筆者自身は、他の文献も並行して参照しつつノートを取りながらでしたので、すべて熟読し終えるのに三年三か月を要しました)。
まさにフロイス畢生の大著であるこの『日本史』は、作成された当時、イエズス会においても「あまりに長く、詳細すぎる」との理由で刊行が見送られ、完成してから百年以上ものあいだは誰にもその存在を知られず、マカオの文書館で眠り続けていました。その後、十八世紀に発掘されて写本がつくられたものの、原著は十九世紀に焼失。写本も、イエズス会が弾圧されていた時期に、世界中に散らばってしまいました。すべての原稿が収集されるまでに、さらに百年の時を要し、ようやく写本がフロイスの母国ポルトガルで刊行されたのは、原稿が執筆されてから四百年近く経過した、二十世紀後半のことです。フロイスは亡くなるまでずっと、この大著の刊行を渇望していましたが、その夢が叶わぬ絶望の中で天に召されました。彼ら宣教師にとって、導かれた人生をまっとうした上での自身の死は悲しいことではないものの、原稿が未刊のまま逝くことについては非常に無念であった心情は、書簡にも記録として遺されています。それから実際に刊行されるまでに四百年もの時を要するとは、長崎の地で最期の時を迎えたフロイスにも、とても想像できなかったでしょう。ですが、原著が焼失してしまった中で、世界中に散らばっていた写本がふたたび収集されて本来の完成形に戻ったことは、我々、後世の読者としては僥倖というほかありません。天国のフロイスも、その奇蹟を、きっと喜んでいるはずです。
このように数奇な運命を辿った『日本史』の内容においては、時系列の前後する事件が混在し、人物の通称(役職名や洗礼名など)が誰のことを記しているのか特定できない場合が多くあります。さらに、写本をつくる際の転写ミスにより、どの言語にも存在しない単語が混入している場合も目立ち、原文を読み解くのが非常に難解である点でも知られています。そのため、熱心な歴史研究家や愛好家を除いて、フロイスの記録した「日本史の意外な真実」の多くが、これまであまり巷間には知られていない面もあったことは否めません。
専門家の多くは、「フロイスの記述は日本側の史料とも見事に一致しており、一貫して極めて精確である」と絶賛していますが、中には、「フロイスは、好意を持った人物のことは良く書いて、自分たちの弾圧者については故意に悪く書いているのではないか」と疑問を呈する見方もあります。
実際には、フロイスは、自分たちイエズス会に対して好意的な人物についても否定的なことを書いていますし、弾圧者についても、客観視して部分的に評価している場合もあります。また、「フロイスは好意を持った相手の名前には『殿』をつけ、嫌いな相手には『殿』をつけていない」という指摘が出ることがあります。そのような印象を受ける方が出てくることも理解できるものの、事実は少し違うようです。フロイスは、自分たちに敵対する相手にも『殿』をつけており、逆に、信長のように親密だった相手にも『殿』をつけないことはあります。それらは純粋に、「当時、そう呼ばれていた通り精確に記録している」と解釈できます。一例として、フロイスは、自分たちの弾圧者である松浦隆信のことを常に「ヒシュウ」(Fixu)と書いています。これは、悪意があって呼び捨てにしているわけではなく、「肥州」(=肥前守)というのが当時の松浦隆信の通称だったからです。フロイスが個人的な好みにより『殿』の有無を区別した例は、実は、ひとつも確認できません。
そのように、フロイスはニュートラルなスタンスを常に堅持しており、記録者として極めて誠実です。しかし一方で彼の記録が「人物の評価など、部分的に事実を歪曲しているのではないか」と時に評されるのは、そう解釈しないと、これまでの歴史の常識が根底から覆されてしまうほどの驚愕の事実を多く含んでいるからです。たとえば、「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。
フロイスと運命的な結びつきのあるフランシスコ・シャヴィエール(いわゆるザビエル)の肖像画は、あまりにも有名です。日本でよく知られている肖像画のシャヴィエールは円頂(コロア=頭頂部)を剃っていますが、ヨーロッパに伝わるシャヴィエールの肖像画は、どれも円頂を剃っておらず、「当時のイエズス会には円頂を剃る習慣はなかった」とする説もあります。実際、教科書などでおなじみのあのシャヴィエールの肖像画は後世に描かれたものであるため、近年は「シャヴィエールは円頂を剃っていなかった」とする説が支持されつつあるようです。しかしながら、フロイスの記録によれば、当時の宣教師たちが聖職者の証しとして円頂を剃っていたことは明記されていますので、そちらが事実のようです。
このように、我々日本人が信じている「歴史上の事実」の多くは、あるものは恣意的に歪められ、あるものは後世に伝えられる過程で情報内容が変化してしまい、「真の史実」とは、だいぶ異なっているのです。特に、時の為政者にとって不都合な真実の多くは、抹殺されるのが歴史の常です。そうした歴史上の勝者たちの「圧力」によって葬られた史実は、「異国人による異国人のための記録」でしか後世に遺されえませんでした。それも、筆者が本書の執筆に強い使命感を抱いた理由のひとつです。
フロイスの記録は、日本の史料と照合できる部分は驚くほど精確であり、私情による歪曲などは、いっさい含まれていません。当時の状勢からして、イエズス会に都合の悪い記述のほうがむしろ大半ですが、それらも正直に、ありのままに書いている、という事実も指摘できます。フロイスの記録が詳細かつ精確であることに議論の余地はないものの、その一部は、「日本側に同じことを伝えた史料が存在しない」という理由だけで、これまでは参照がためらわれてきました。ですが、フロイスの記録者としての一貫した誠実さを信ずるならば、そうした「新しい事実」といえる部分にこそ、まさに着目すべきではないかと筆者は考えています。
フロイスが人生を懸けてまとめたこの偉業を、何とか娯楽作品として、気軽に愉しめる歴史小説として昇華させられないだろうか──という着想が初めて浮かんだのは二〇〇九年のことでした。その時から、「史料」を「歴史小説」に生まれ変わらせる上で、さまざまな障壁が筆者の前に立ちはだかりました。具体的には、史料の原書にあたるためのポルトガル語とラテン語の知識、フロイスが用いる宗教的な表現を理解するためのキリスト教カトリックおよびイエズス会の知識、そして、当然ながら、戦国時代の風俗の知識──などです。
フロイスの『日本史』は、松田毅一先生と川崎桃太先生による決定版とも言える翻訳がありますので、幸いなことに日本語でも内容を参照できますが、フロイスが何を意図して記述したのかを精確に理解するためには、ポルトガル語の原文でどう書かれているかを、逐一、確認する必要がありました。一例をあげると、日本語版には「信長は他の者を『貴様』と呼んでいた」という一文があります。フロイスの原文に「kisama」と書いてあれば話は単純なのですが、原文には、ポルトガル語の二人称である「tu(トゥ)」としか書かれていません。ポルトガル語の二人称には二種類あり、丁寧な呼びかけが「voc(ヴォセー)」で、対等か目下の者への呼びかけが「tu」です。ただ、「tu」はさまざまな日本語に置き換え可能ですので、日本語版だけを参照して、「信長は他の者を『貴様』と呼んでいた」と鵜呑みにはできません。それは、翻訳者の解釈(あるいは仮説)であり、フロイスの記録ではないのです(翻訳者の先生方も、何と呼んでいたか本当はわからない、と、註釈に明記されています)。逆に、「内裏(ダイリ=天皇) 」、「公方様(クボウサマ=足利将軍)」などは、原文でも「Dairi」、「Cubosama」と常に書かれているので、当時そう呼ばれていたと確信できます。そのように、単語ごとに原文を参照し精査する作業が不可欠であったのです。
当初どれひとつとして著者が備えていなかった専門領域の知識をひとつずつ学習し、咀嚼して自分なりに理解し、まとまったひとつの物語の形でアウトプットできるようになるまでには、七年もの歳月を要しました。もっとも今現在でも発展途上であり、今後も知識を磨き続けていかなければならないことは言うまでもありませんが、かつて遥か天上の雲のように遠く感じられた目標に、今では、ようやく背伸びすれば指先だけは届く、という確かな手応えが得られるようになりました。
本書はフロイスの『日本史』を下敷きにした歴史小説──世界や国家についての物語なので、厳密には「大説(たいせつ)」──であり、フロイスの記録にできるだけ忠実であるように寄り添っています。フロイスがほんの数行で書いている「過去に起きた歴史的事実」のひとつひとつを、大説としては数ページずつになる「今ここで起きている物語」として膨らませる手法で描いていますので、当然ながら、ポルトガル語で書かれた原著を日本語に直した翻訳作品ではない、という点は、念のため強調させていただきます(ご興味と余裕のある方は、フロイス原著の翻訳版と比較しながら本書をお読みになることで、より重層的な歴史の醍醐味が得られるかもしれません)。
いかにフロイスが文才に恵まれていたとはいえ、『日本史』は、あくまで「史料」であり、「物語」ではありません。出来事の空白を埋めて歴史大説という娯楽作品に昇華させる段階で、筆者の推理によるさまざまな脚色が、当然、含まれています。しかしながら、それらは根拠のない妄想や捏造ではなく、すべて、何らかの手がかりに基づいた理詰めの推測であることも、ここに明記いたします。事件の起きる日付が日本側の史料と異なるものや、事件の起きる時系列(前後関係)に多少の誤謬を含むものについては、著者の判断で、適宜、もっとも妥当と思われる形に調整しています。その旨も、ご理解いただければ幸いです。
本書は、二〇〇九年に着想を得た当初、筆者の「作家デビュー十五周年記念作品」として二〇一一年に刊行することを目指していましたが、前述の通り、執筆準備に数年を費やしたことにより、ようやく本書が完成したのは、デビュー二十周年を迎えた二〇一六年の夏でした。それから紆余曲折があり、実際にこうして刊行されるまでに、さらに一年以上の時間を要しましたが、フロイスが脱稿から刊行までに四百年近くかかったことを思えば、一年数か月というのは誤差の範囲内かもしれません。本書を完成させるにあたり、執筆──というより、必要な知識を身につける学習と、理想の記述スタイルに辿り着くまでの模索に数年もの時間がかかってしまいましたが、今では執筆に必要な知識のベースも構築され、記述スタイルも現時点で最良の形に進化させられており、日々なお成長し続けている自覚もあります。今後は続巻もコンスタントに書き続けていくことを、現在の目標にしています。
フロイスは、その六十五年の人生の後半ほぼ半分にあたる三十二年(一五六三年七月以降の三十五年から、途中、マカオに滞在した三年を除く)を日本で過ごしました。そのうち本書で描けたのは最初の一年七か月だけで、残念なことに、現時点では、まだ織田信長すら本編には登場させられていません(二巻の後半で登場予定ですが、分量の関係で、最初の巻に入れることはできませんでした)。
現時点での構想としては、イメージ通りに進行できれば、二巻が「信長登場」、三巻は「天下布武」、四巻は「本能寺の変」……と続いてゆく予定ですが、フロイスの日本での活動すべてを歴史大説の完成形にするためには、筆者自身も最低十数年を費やす覚悟はしています。願わくは、フロイスと辿るこの歴史大河大説が少しでも長い時を刻めるように、筆者としても心から期待しております。そのためにも、読者諸兄姉のご指導ご鞭撻を伏して乞う次第です。衷心より、何卒よろしくお願い申し上げます。
本書の物語は、九州北西端にある海の玄関口、横瀬浦(=長崎県西海市西海町)の港町から始まります。横瀬浦港のすぐ近くには、まるで握手を交わす相手を待っているかのように、前方に手を差し伸べた姿勢のルイス・フロイス像が、静かに佇んでいます。取材で横瀬浦を訪れた際、このフロイス像と固い握手を交わし、彼が人生を懸けて書き上げ後世に遺してくれた記録を、筆者も全身全霊を捧げて物語の形にすることを誓いました。フロイスの偉業を紹介する役を務めるには甚だ力不足であることはよく承知しておりますが、この非才なりに丹精を込めた自負はあります。本書をきっかけに、ルイス・フロイスを再評価してくださる方がひとりでも増えれば、それ以上の悦びはありません。
2017年 作家デビュー21周年を迎えた夏に 清涼院流水 記