山川氏が語る三木谷浩史氏の実像が垣間見える箇所を「問題児 三木谷浩史の育ち方」から一部を抜粋して公開します!
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三木谷浩史さん本人に実際に会ってみると、驚くことが多数ありました。一番大きかったのは、世間の多くの方が抱いているエリートというイメージとまるで違っていることでしょうね。これは、会ったことのある人なら誰もが抱く印象ではないでしょうか。
やんちゃで、メチャクチャ明るく、自分の欲望や気持ちに忠実。世間の評価など一切気にしない。そんな風に生きている人を、世間は問題児と呼びます。三木谷浩史は、十二分に「問題児」でした。
彼には非常に優秀な姉と兄がいましたが、その二人に対してコンプレックスを抱いたことはないと思います。従来の「コンプレックスをバネに」などといった育ち方はしてこなかったでしょうね。それは彼が、あくまでも明るく、外向的な性格に起因していると思います。
彼は成績が悪くても何も気にしない。気にしないから、勉強することもない。必然的に成績が上がることはない。つまり、これは今でもそうみたいですが、自分がやりたいと思ったり、興味をもったものしか本気になれない性格なんでしょう(笑)。
ご両親も、「本人がやりたくないものを無理矢理にやらせても」という意識があったのも、三木谷浩史さんにとって幸運なことですね。
そう、希代の実業家は自然に大きな発想ができるように育てられたという印象が強いですね。
小学校時代の通信簿 (『問題児 三木谷浩史の育ち方』1章 三木谷浩史を教育した父と母の考え より)
三木谷浩史は、少年時代は勉強をまったくしなかった。したがって成績は悪かった。小学校時代の通信簿は5段階評価でほとんど2か3である。「良い」「気をつけたい」の2段階評価では、ほとんどが「気をつけたい」である。しかし父の良一も、母の節子も気にかけなかった。それよりものびのびと育てることを心がけた。
そういう話をしても、誰も信用しない。誰もその話を真剣に聞かない。
嘘とはいわないが、成績が悪いといっても、それはクラスで一番ではなかったとか、オール5ではなかったとか、そういうたぐいの話に違いないと考える。
彼のプロフィールを見れば、誰だってそう思うだろう。
一橋大学を卒業し、日本興業銀行に入行、同期中最速でハーバード大学に留学し、MBAを取得。30歳で興銀を退職し、新卒の大学生を従業員にしてたった二人で起業し、わずか5年後にはアメリカの経済誌『フォーチュン』で世界の若手富豪ランキング6位に入るほどの成功を収めた。
どこから見てもエリートそのものだ。
三木谷の妻の晴子でさえ、まともに取り合わなかった。
三木谷には二人の子供がいる。
妻の晴子と子供たちの教育の話になった時、
「でも俺は勉強ができなかったよ」と三木谷は言った。
「そんなに悪いわけないでしょう」
「いやいや……」
そんな会話が交わされ、三木谷は実家の母に頼んで、小学校から高校までの通信簿を送ってもらった。
「これ、これ」と通信簿を見せたら、妻はさすがに啞然とした。
その通信簿のコピーが手元にある。三木谷の話は、大袈裟ではなかった。
小学校1年生から6年生までの間、5段階評価でいうと彼の成績表を埋めているのは2と3ばかりで、5はひとつもない。中学校の通信簿も2と3ばかり。それが高校2年生まで続く。
欠席日数も28日、21日、33日、という具合である。
「何やってたんだろうね。ほぼ2週間に1回は行ってない」と大人になった三木谷は不思議そうな顔をする。
小学校2年生の時の教師の所見の欄に「直感力にすぐれていてぱっと気がつくのですが、そのあとじっくり考えることが少ないので、考えが深まってきません」と書かれているのはまだ好意的な表現で、その他は「授業中落ち着きを欠く」「学習中の姿勢がやや悪い」「服装をきちんとしている時が少ない」「身の回りの整理整頓に気をつけさせてください」「ノートの利用が少し乱雑」「忘れ物が少し多い」「人の話を聞いていない」などといった言葉が並んでいる。
かつての自分の通信簿を苦笑しながら眺め、今の三木谷はこう言う。
「子供の頃からよく人の話を聞くいい子で、成績もよくて、行儀もよくて……そんなやつは、大成しないと思います。小学校の時に人の話を聞いてるやつなんか、駄目なんじゃないかと思います」
おっしゃる通りである。
「6時間ずっと真面目に椅子に座って授業を受けるなんてことを小学校からやってたら、それはもうロボットになっちゃいますよ。それだけではなく、日本の教育のおかしな点はよくわかっています。だから今はいっそのこと僕が学校を作ろうかと思ってるんです。枠にとらわれない学校を」
小学校5年生の頃、煙草を吸う先生が使っていたアルミの灰皿を無断で持ってきて、それをペシャンコにし廊下でエアホッケーをやった。
成績が悪いだけでなく、かなり教師の手を焼かせた子供だったのだ。
現在の三木谷浩史という人物の印象と、その通信簿はあまりにもギャップが大きく、これはむしろ痛快なくらいだ。
織田信長は子供の頃、「うつけ」と呼ばれていた。
隣国の斎藤道三を油断させるために、信長は愚か者を装っていたのだという説がある。そんな回りくどいことを、子供時代の信長がするだろうか? 浩史の通信簿を見てまず考えたのは、もしも戦国時代に通信簿があったら、信長の成績も似たり寄ったりだったに違いないということだった。
信長がうつけと呼ばれたのは、要するに大人たちの価値観に素直に従う子供ではなかったからだろう。浩史が教師に好かれるタイプの子供ではなかったように。
弁解するように、三木谷浩史は言う。
「子供の頃は、ルーズなくらいでいいんじゃないかと思うんです。枠にはめ込むようなことをしないで、のびのびと育てたらいい。成績なんて、どうでもいいんじゃないかって」
小学校の教師は通信簿に所見を書くとき、どんな生徒でもひとつくらいは長所を見つけなければいけないのだろう。どの通信簿にも異口同音に、同じ長所が書かれていた。
「子供らしく、明るく過ごせました」
少年三木谷浩史は、ひとことで言うなら、子供らしい子供だった。自分のやりたいことしかやらなかった。つまり、遊んでばかりいた。
もちろん、そういう子供はたくさんいる。というよりも、子供というものは、本来そういうものだ。もしも学校がなかったら、そして大人が何も強制しなかったら、子供は朝起きてから疲れ果てて寝るまで、好き放題に遊び続けるに違いない。
彼が幸運だったのは、それで十分だと彼の両親が考えていたことだ。
彼には4歳上の姉と、2歳上の兄がいる。この二人は浩史に比べるまでもなくかなり優等生で、姉は後に徳島大学の医学部を卒業して医師となり、兄は東京大学農学部を卒業して研究者になった。
世間的に言えば、浩史は兄弟の中の“おちこぼれ”だった。
しかし、彼の両親は浩史の成績が悪いことをほとんど気にしていなかった。
両親は学校の成績ではなく、違う部分を見ていたのだ。
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