思想家・吉本隆明氏の家に集う猫と人の、しなやかでしたたかな交流を綴った『それでも猫はでかけていく』より、試し読みをお届けします。
白猫の呪い
その仔猫の飼い主は、たぶん猫を飼うのは初めてか、経験の少ない若夫婦でしょう。もしかして、チビ猫をかまって遊びたい盛りの4、5才の子供もいたかも知れません。
知り合いからか里親ネットか、ひと目でほれ込んだその真っ白な仔猫をワクワクしながら家に連れて帰りました。
アクアマリンのようなブルーアイ。瞳は時として赤く見えるほどの完全なアルビノ。歌舞伎の女形のメイクのような赤のアイラインに、目頭の朱も色っぽい。まっすぐでよく動く長い尻尾。エジプト猫の銅像のように大きく反った耳。パーフェクトに美しい仔猫。
でも仔猫がその家で、蝶よ花よのお嬢様として暮らしたのは、おそらく1ヶ月にも満たなかったことでしょう。
手がつけられないほど活発で、ことにシーツや布団の下にすべり込んで遊ぶのが大好きな仔猫。ある日、布団の下に潜っていることにまったく気が付かなかった家人が、もろに上から踏みつけてしまいます。「ギャッ!」という声であわてて布団をめくってみると、仔猫は腰が抜けたような様子。でもしばらくすると、ヨタヨタと立ち上がります。「ああ……よかった無事だった!」。左足をちょっと引きずるようだけど、そのうち治るでしょう。しかし本当の悲劇はそれからでした。しばらくすると仔猫は、ポタポタとおしっこを垂らし始めます。元気に駆け回りジャンプだってできるのに、座るとジョワーッと漏らします。気が付けば自慢の長い尻尾も、ダランと垂れ下がったまま動くことはありません。1日で家中の床も布団も家具も、おしっこだらけ。あちこちに、うんこも転がっています。
仔猫は踏まれた時に、脊髄の末端「馬尾神経」を損傷し、排便排尿困難になっていたのです。
これではどうがんばっても、家の中で飼うのは不可能です。でも垂れ流し以外はまったく元気なんだし、外でなら……そうだ、よく散歩に行く大きなお寺。あそこには丸々太ったノラ猫がゴロゴロしてるから、近所にはエサをやる人がいるんだろう。あそこなら、きっと幸せに生きていける。それにもしかしたら、猫好きの親切な人に拾われないとも限らないじゃないか……と自分達を納得させ、1年前の7月飼い主は東京駒込の名刹に、生後3ヶ月の真っ白な仔猫を捨てたのです。