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性暴力とフェミニズムを考える

2018.02.25 公開 ポスト

恋人からの過剰な束縛も性暴力だ香山リカ/北原みのり

さまざまな性の表現があふれる現代ニッポン。いま「問題」と感知できなくなっている性の「問題」をめぐり、香山リカさんと北原みのりさんが対談で考察を深めていった一冊が、近刊『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか――「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』(イースト・プレス刊)です。
#MeToo運動をはじめとする最近の性に関する問題意識について存分に語っていただきました。
(2018年1月18日、下北沢・本屋B&Bにて収録)

セクハラは女性へのポジティブな評価?

北原みのりさん

北原 #MeToo が話題になっているさなか、ワイドショーを見ていたら、元外務省官僚の女性がどこかの講義で大学生たちに、上司にされてイヤなことの選択肢を出したそうなんです。正確な記憶ではないですが、1.上司にキスされること、2.お茶くみさせられること、3.家で子育てしてろと言われる、というものだったと思います。すると1番が最も少なかったと話していました。2番と3番は、仕事が出来ないからというネガティブな評価で、1番は、かろうじてポジティブな評価だからと説明していて、かなり衝撃を受けました。

香山 学生の話で言うと、デートDVなんかに関してはまったくわかっていないですね。結婚していないカップルのDVは、殴る蹴るなどのわかりやすい暴力とは違う形になることがあり、一番多いのが「束縛」です。しかも、心理的な束縛の形を取ることが多い。

 たとえばずいぶん昔、私のゼミにいる女子学生に、「どうしてこのゼミを選びましたか?」ときくと、「彼から男の教授のところには行くなと言われたから」という返事が返ってきたことがありました。その学生の彼氏はとても過干渉で、「今日は本当に大学に行くのか? そう言ってほかの男と遊んでいるんじゃないんだろうな? 授業を受けてる写真送れ」などと言ってくるそうです。もしかしたら、その学生は自分の研究テーマにより近い男性教授の別のゼミを選びたかったかもしれない。でも、それが許されない。そういうふうに束縛するというのも、デートDVの典型です。

 すごくやっかいなのは、学生にそれはデートDVだと伝えても、「DVって殴ったりすることを言うんでしょう、でもこれは愛されている証拠だから」と否認しようとしてしまう。女子学生どうしでも、「いいわねえ、それ愛だよ」「私の彼なんか放置で、男と飲みに行こうが何も言ってくれない。嫉妬してくれるのは愛があるから」などと言って、お互い「これはおかしい」と思わないような共犯関係を作っている。

 ただ、私は産業医として、企業の健康管理室でも働いているのですが、そこで見ていると日本の企業の男性社員たちも、学習によってだいぶ変わってきた。「まだピンとこないが、どうやらこれはセクハラらしい、こういうことはいまは女性社員には言っちゃいけないらしい」とわかってきた。やはり「まずは学習」なのかな、とも思います。

北原 そうですね。ただ、私が面倒臭いのと感じるのは、「どこまでがセクハラなのか」という質問です。そういう話じゃないと思うんだけども、性的な話をして、「じゃあ、どこまでがロリコンなのか」「じゃあ表現の自由というのはどこまで良くて、どこからが暴力なのか」とか言う。線引きしろ、とか、そんなのはできないと思うんだけども、香山さんもそういうおじさんに教える時に、「じゃあどこまでがセクハラか」とか聞かれますよね?

香山リカさん

香山 さっきの“You're in such good shape”じゃないけれども、褒め言葉もダメですよ、とはっきりさせておいたほうがいいですよね。とにかく容姿に関してはいいも悪いも、一切話題にするのはやめましょう、とでも言っておかないと、混乱を招く。

北原 そう言うと、「表現の規制だ」「息苦しい時代になったな」みたいに返される。最近、マツコ・デラックスも言っていましたよね、「セクハラを今まで受けたこともない、想像だけでセクハラを語っている超ブスなフェミニストと、カトリーヌ・ドヌーヴの乖離っていったらとんでもないものがある」って。今の#MeToo運動はやりすぎだという声に対して、香山さんはどう思いますか?

香山 それはやっぱり女性という存在が社会の中で置かれてきた状況で、圧倒的にパワーの面では違うわけで、そこにおいては若干、アファーマティブにやるしかないと思う。すぐに「男性だって同じことやってもいいじゃないか」と言い出す人もいますが、今まで女性が置かれてきたマイノリティとしての立場、パワーの非対称性を考えれば、まずは女性にとっての#MeToo運動でいいのではないでしょうか。

日本の男は変わるのか

北原 去年12月に中国の南京に行きました。大虐殺記念館は事実が淡々と紹介され、またなによりもそこが亡くなった方たちへの祈りの場であり、記憶していく場であることが強く表象されていました。

 その展示のなかで、日本軍の性暴力について紹介している場がありました。日本軍がしたのは、強姦や殺戮だけではない。12月の冬の南京で、若い女の人だけ集め、パンツを脱がせ、下半身裸にして走らせた。それを日本兵がみんな笑って見ていた、という証言がありました。走らなかった女性たちは、その場で射殺したとも。

 私は、それを見た時、その「笑い声」を知っている、と思ったんです。女を性で貶めて、男たちで連帯する方法、女が嫌がる姿をみて笑う振る舞い、それは全く遠い戦争時代の悲惨な話などではなく、この社会の中で女性に対するまなざしの根幹が変わっていないのではないかって。

香山 たぶん、その男たちの中にも、「嫌だな」と思っていた人もいたかもしれない、自分の妻や娘のことを連想した人もいたでしょう。でもいわゆる同調圧力でそうせざるを得なかった人たちもいたと思う。

 ただ幸いなことに今は、男の人たちの中からも「それは嫌だ」「やめよう」とか、声を上げやすくなってきてはいますよね。女性団体がいろいろ抗議に行ったり、声を上げたりするだけじゃなくて、やっぱり当事者である男性の側から言うことが大切なのではないでしょうか。

正義とは、私の声が聞かれること

北原 『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の中でも、「慰安婦」問題を話しているけども、あの人たちこそ#MeTooですよね。それまでずっと沈黙を強いられていた人たち、ものすごい性暴力を受けていた人たちが声を上げたということは、とてつもないことだと思うんです。当時60代の女性たちがほとんどで、20代の時の性暴力の被害に対して、たった一人の女性、金学順さんが声を上げたことから、「私も」「私も」と世界中から声が上がり始めたわけじゃないですか。

 その声に対して、日本が誠実に対応してこなかったことで、今、やはり若い女性たちが最もつけを払わされているように思います。性暴力への認識も全く深まっていない。当事者の痛みの声に耳を傾けること。そういった声に対して、どう自分が耳を傾ける力を養えるのか。そこが問われるのだと思います。

香山 女性差別の話は精神障害者差別、人種差別の問題と同じように感じるところもあります。私自身は差別の当事者性は薄いかもしれないけども、起きている事態は理解できます。

 マイノリティの人たちがいて、その人たちを押さえつけるために、経済的に、社会的に、それに依存しないと生きていけない構造が出来ちゃっていて、それ自体がじつは抑圧とか差別とかの構造であるのに、もう十分に植民地化してしまってから、「でも宗主国がいなくなっちゃったら暮らしていけないでしょう?」みたいに迫る、というのと同じだと思います。

 沖縄の基地問題もそうです。基地推進派は、「基地がないと生きていけないって、沖縄の人たちも言っているんだよ」って言うけども、まず当事者が抑圧されて声を上げられない構造をつくっていることからしておかしいでしょう、と言いたい。基地に経済が依存するような構造を作り上げたのは、いったい誰ですか、と。ただ、そこまで遡って考えるというのはやっかいなことだし、すごく想像力も必要なことですよね。

 だけど、なんでも結果だけしか見ずに、「その人たちだって喜んでやっているんだ」「その人たちもそれがなかったら困ると言ってるよ」と被抑圧者自身の選択だと言おうとするような状況は、いったいどうやって打破すればよいのかなと……。

北原 どうしたものかな、ですね。でも香山さんが、本の後書きにもリベラルということを書いてくださっていて、私は改めてリベラルとは何なのか、考えさせられることがあるなと思っています。日本の今の状況、政治的なことも本当にひどいですよね。そこでリベラルの人たちの「言葉の弱さ」というのもすごく気になる。

 たとえば「慰安婦」問題に関しても、韓国のナショナリズムを批判することによって何か言ったような気持ちになってしまうフェミニストたちがいる。性暴力に対してリベラルとして、なぜちゃんと語ってこられなかったのかなと思うんです。リベラルとは何を目指す思想なのか、ということをもう一回考えたいなと。

 最近、私が責任編集した『日本のフェミニズム』(河出書房新社)で紹介したんですが、竹村和子さんが『愛について』(岩波書店)という本の中で、正義について考えていらっしゃるわけですよ。いま正義と言うと「正義、プッ」とか「正義怖い」とか、糸井重里さんも「犬は自分が正義だと言わないからいい」みたいなことを書かれていたりするけど……。

香山 「正義の暴走」とかね(笑)。

北原 そうそう。「正義の争いから冷静な対話へ」みたいに、正義を嘲笑するリベラル知識人を見ると、リベラルって何だろうなと思ってしまいます。

 正義とは何かを考える時に、竹村さんがまず提案するのが、「正義とは私の声が聞かれること」だと。「聞かれない声」というものの多さ、それは不正義が実行されたから。フェミニストが当事者として誰の声を聴いて、誰のために闘うのか、誰の言葉を紡いでいくのか、ということが今問われると思っています。
(おわり)

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香山リカ

1960年、札幌市生まれ。東京医科大学卒業。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を活かし、現代人の心の問題のほか、政治・社会批評、サブカルチャー批評など幅広いジャンルで活躍する。『ノンママという生き方』(幻冬舎)、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』『イヌネコにしか心を開けない人たち』『しがみつかない生き方』『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』『弱者はもう救われないのか』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数。

北原みのり

1970年神奈川県生まれ。作家。津田塾大学卒。1996年フェミニズムの視点で女性のためのセックストーイショップ「ラブピースクラブ」を設立。時事問題から普遍的テーマまでをジェンダーの観点から考察する。『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(朝日新聞出版)『性と国家』(河出書房新社)など単著・共著多数。

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