小説を深く読み込むことは、
世界と対峙する「武器」を身につけること
中村さん自身が語ってもいるが、読者からの手紙には「一気読みした」「再読したら物語の新たな一面が見えた」という内容のものが多い。それは、『去年の冬、きみと別れ』の面白さを証明する感想でもあるのだが、実はそれだけではない。
「一気読み」や「再読」を支えているのは、物語の分量でもあるのだ。中村さんは、そこにも高い意識を持って取り組んでいた。
「全体を500ページにしようと思えば、当然できます。でも今回は『自分の文体で、読み始めてすぐ惹きこまれる物語を、一気読みできる分量で書く』と決めていました。文体、物語性、分量、この3つのうちどれか1つでも欠けてしまったら、僕が現時点で思い描く”完全なミステリー”にはならない。読者が日常を忘れて夢中で読んでくれる作品を書きたかったですし、『もう一回読もう』と思ってくれたときに躊躇なく再読できる分量であることが大事だと思いました。これだけのミステリーの要素を、この分量で成立させたものは他にないと思うんです。そういうことは意識しました」
実際、『去年の冬、きみと別れ』は濃密な世界観を維持しながらも200ページを切る分量で完結する。文体と物語性を融合させる試みは、ここ数年中村さんが意識的に取り組んできたものだが、そこにもうひとつ、「分量」という要素を加えていたのだ。
3つの要素を高次元で絡ませながら、猛スピードで物語は展開していく。しかも、未だかつて誰も試みたことのない「トリックの流れ」を巧みに織り込ませつつ。
「この作品は、『中盤の”ある一文”によって、作品の印象がガラリと変わる』というものにしたかったんです。その一文によって、謎が増え、世界が深みを増し、物語がさらに加速していくという構造を意識しました。そして、物語の終盤ですべての謎が解決されて、ラストの一文ですべての『伏線』が回収される作品にしたかったんです」
ここで中村さんが語る「伏線」とは、物語の根幹に関わってくるものである。未読の方のためにも詳しくは書けないのだが、作品の存在自体にもかかわる大きな「伏線」。『去年の冬、きみと別れ』には、冒頭の1ページ目から油断できない気配が漂っている。再読した際に本書の仕掛けに気付くというのも、楽しみの一つだろう。
隅々にまで意識を行き渡らせるその姿勢には畏怖の念さえ覚えるが、今までにないタイプの小説だけに、色々な意見が出てもいる。作品の性質ゆえ、今までの中村さんはそこに関して言及することを避けてきたが、今回は語っていただいた。
「ラストの一文まで読んで、『そういうことだったのか!』と驚いてくれる読者はたくさんいるのですが、中にはその一文がどういう意味なのかわからなかったという方もいるみたいだと編集者から聞きました。ただ、それは読解力のあるなしではないと思うんです。例えば安部公房とか、夢野久作とか、僕の本で言えば『悪意の手記』とか、そういった作家や作品を読んだことのある人たちは深く考えずにこの作品のトリックを理解してくれているんです。難しいことを書いているわけではないので。つまり読書体験の違いの問題であって、読解力の問題ではない。もしラストの一文がわからなかった方がいて、それをわからないままにしてしまったら、その方にとって馴染みのある読書の仕方を維持するだけになってしまうので、この作品が新たな本の読み方を獲得するきっかけになってくれたら嬉しいですね。新たな読み方を獲得することって、日常生活での武器にもなり得ると思うので」
本書のトリックを理解すると、作品の凄みが倍加する。そして、読み返さずにはいられなくなる。読むたびに様相の異なる物語世界が現出することに驚き、作品への理解をさらに深めていく。そしてそれは、生きにくいこの世の中をサバイブする「武器」となる――。それこそ、中村さんが狙っていたことなのかもしれない。なぜなら、小説家になる前の中村さんは、つまり、夢中で小説を読みあさっていた頃の中村さんは、同じ作品を何度も繰り返し読むことで、自身の内面世界を広げ、世界と対峙する武器を身につけていったのだから。(第2回に続く)
(構成:編集部)
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