北斎は忠正の遥か前から人気だった
さらに木々氏はこうも言った。
「忠正は1884年に美術商としてパリに自分の店を出しますが、最初は浮世絵はあまり扱っていなかった。むしろ古美術を扱っていた。ヨーロッパに渡った浮世絵自体、83年ころまでは北斎ばかりでした。その後フランス人美術商や評論家が日本を訪ねたり横浜に出店したりして、初期の鈴木春信や歌麿などの浮世絵を発見する。つまり忠正がパリでの浮世絵ブームを起こしたのではなく、忠正はジャポニスムの熱気の最中にたまたまパリに現れて、求められるままに浮世絵を輸入したのです」
同様の証言は、2017年秋、「北斎とジャポニスム」展のために来日したパリ・オルセー美術館担当名誉学芸員、ジュヌビエーヴ・ラカンブル氏からもあった。
「ジャポニスムがパリで起きたのは1872年ころだと思います。ビュルティという美術評論家がこの言葉を広めました。忠正がパリにやってくる前から、ジャポニスムの熱気は渦巻いていましたから、忠正が火をつけたわけではない」
ラカンブル氏こそ80年代半ばに、いまは国立西洋美術館館長となった馬渕氏に対して、「ジャポニスム」の存在を滔々と語ったフランスの研究者だった。ルーブル美術館が学芸員を育てるために設けた「エコール・デュ・ルーブル」の卒業生で、フランスでのジャポニスム研究の第一人者だ。齢70を越えると思われるが、一度ジャポニスムについて語りだすと次々と美術史上の重要項目やその年号等を連発し、知識を余すことなく披瀝する。
彼女によれば、西洋が日本の美術に最初に目を向けたのは1820年代という。つまり鎖国中から、西洋人は得意のコレクショニズム(蒐集癖)を東洋の島国に向けていたのだ。ラカンブル氏は続ける。
「長崎の出島のオランダ商館の人たちは文化資料としてのあらゆる品々を持ち帰りました」
その中の著名な一人に医師のシーボルトがいる。オランダ・ライデンの「シーボルト・ハウス」を訪ねると、様々なコレクション―ー動物の剥製、植物の標本、陶磁器、生活道具、絵画、着物、人体を示す木製の人形まで、が陳列されていた。
あまりに子細に日本を観察したために、1823年に来日したシーボルトは29年には国外追放になった。帰国後32年から刊行を始めた「日本」には、「北斎漫画」の5、6、7編からとった約40点の挿絵が掲載されている。ではオランダ人は北斎に会っていたのか? シーボルトは北斎に会ったのか?
出島に来たオランダの商館長は4年ごとに江戸の将軍に参拝する義務と権利があり、中には『北斎漫画』の作家として北斎を知っている者もいた。出島のご用絵師、川原慶賀が紹介したという。22年にオランダ商館から北斎に発注された絵画は、26年に商館長の手に渡り、その年のうちに36点がオランダにもたらされている。シーボルト・コレクションの中にも北斎があることから、彼もまた北斎に会ったと考えられている。43年には、シーボルトがもたらした本の類がパリの国立図書館に登録されているという。
前述した版画家ブラックモンが北斎漫画を見出したといわれる1856年の遥か前に、長崎の出島からオランダ経由で、日本美術や北斎の作品はヨーロッパに渡っていたのだ。
知られざる北斎
「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。
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