「この本を読んで『ふーん』で済まされては、私が嫌だ」と、哲学者の野矢茂樹さんが朝日新聞書評で絶賛してくださった、梶谷真司さんの『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』。
梶谷さんが「考えることについて考える」きっかけになったのが、「哲学対話」との出会いでした。「哲学対話」が教えてくれた、考えること、そして哲学の本質とはどんなことだったのでしょうか? 本の「はじめに」からお届けします。
(記事の最後に、代官山蔦屋書店での「哲学対話」イベントのご案内(2/15 19時~があります)
「哲学対話」との出会いが「考える」ことの本質を教えてくれた
私は長い間、哲学というのが、もっとシンプルで誰にでもできるものにならないかと思っていた。べつにいわゆる哲学の思想や問題を広く人に知ってもらいたいわけではない。物事をひっくり返したり、角度を変えてみたり、あれこれ考えるのは、それじたい楽しいことだ。きっと誰にとってもそうにちがいない!という勝手な確信があった。
けれどもそれが具体的な形をとったらどのようなものになるのか、ずっと分からなかった。そうこうするうちにある時、「哲学対話」というものに出会って、自分の思いが一気に現実味を帯びてきた。
哲学対話というのは、本書で詳しく説明するが、5人から20人くらいで輪になって座り、一つのテーマについて、自由に話をしながら、いっしょに考えていくというものだ。
私がはじめて見たのは、2012年の夏、ハワイであった。「子どものための哲学(Philosophy for Children)」というのを実践している現地の高校と小学校の授業に参加する機会に恵まれた。その時、子どもたちが真剣に考えながらも、うれしそうに笑っている様子を見て、何とも晴れやかな衝撃を受けた。そうだ、考えることは、一人でやっても楽しいけど、こうやってみんなでやれば、もっと楽しいんだ! だったら対話の場を作ればいい!
そういうわけで、以来いろんなところで哲学対話を行ってきた。大学で、学校で、地域コミュニティで、農村で。すると、ハワイで見た子どもたちと同じような表情に、うれしそうに考えている姿に、老若男女問わず、いたるところで出会った。
普通ものを考えている時、私たちはけっこう気難しい顔をしている。あまり楽しそうではない。むしろつらそうだったりする。ところが対話をしている時、多くの人は大人も子どもも楽しそうに目を輝かせ、時に眉間にしわを寄せながらも、とても満ち足りた表情を見せる――人が考えている姿っていいなあ。
そんな対話の光景を何度も目の当たりにするうち、分かったことがある。ここにはアメリカとか日本とか、子どもとか大人とか、男とか女とか、そんな区別なんてない。国籍も、年齢も、性別も、学歴も関係ない。みんな考えることが好きなんだ。考えることって楽しいんだ!――これは大きな発見だった。
けれども、もっと多くのことが分かってきた。まず、「考える」ということがどういうことか、人に問い、語り、人の話を聞くということがどういうことか、私自身、はじめて分かった気がした。それとともに、自分の哲学についての理解も大きく変わった。哲学は、私にとって、かつてのように難解で漠然としたもの――であるがゆえにいっそう魅力的だった――ではなくなった。もっとシンプルで明快なものになった。
しかも、もっと大きな変化があった。「考える」ということを起点として、社会の中にあるいろんな問題が見えてきたのだ。しかもそれは、社会の限られたところにある特別な問題ではない。そこらじゅうにあって、しばしば気づかないくらい私たちの内奥に食い込んでいることだ。それは「考えるって楽しいね!」とか、哲学は好きな人だけやっていればいいのだという、吞気な話ではない。もっともっとまずいことが起きている。
だから今、哲学者のおめでたい勝手な願望ではなく、あえて言うのだ。「哲学は誰にとっても、いつも必要なものだ」と。この入門書では、そうした誰にでも必要な哲学がどのようなものなのか説明していく。そうすることで、私たちがどのような問題を抱え、なぜ哲学が重要なのか、どうすればその問題を乗り越えられるのかということも分かるだろう。
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考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?