生まれたばかりの赤ん坊も哲学に参加できる
「〜歳からの哲学入門」と聞けば、小学生なら「7歳から」とか、中学生なら「13歳から」というのを想像するだろう。そういう本なら、難解な哲学思想について子どもにも分かるようにやさしく書きましたとか、若いキミに考えてほしい!ということをアピールするにちがいない。
でもこの本は違う。「0歳から」の哲学入門である。あまりにも無謀だ。生まれたばかりでは、哲学どころか、そもそも本が読めないし、言葉も話せないではないか。なのに「0歳から」である。いったい何の冗談なのか。
もちろん生まれたばかりの赤ん坊にこの本を読んでほしいなどと乱暴なことは言わない。実際にこの本が読めるのは、中学生以上だろう。でも、「0歳から」というのは本気である。0歳の赤ん坊は、じゅうぶん哲学に貢献できるからだ。
子どもは生まれた直後から、親だけでなく、大人を哲学的にしてくれる。生命の不思議、命のか弱さと力強さを感じさせてくれる。社会性がまったく欠如した、いや、社会性を超えた存在として、私たちに常識の限界を知らしめてくれる。
圧倒的な弱さとかわいらしさによって、私たちを虜にし、どんなことがあっても守るべきものが何か、無償の愛の可能性がどんなものなのかを教えてくれる。あるいは、放置できない存在として、親に義務と責任の何たるかを問いかけ、厄介な重荷となって、親を精神的にも肉体的にも追い詰める。
そうやって私たちは、幼子からたえず問われ、試され、考えざるをえなくなる。自分という人間について、命の大切さと重苦しさについて、この世の規範と理不尽さについて。そうやって、私たちに問いかけ、哲学的な次元に引き入れてくれるという意味で、哲学は0歳から参加可能なのである。
他方、「〜歳まで」と上限を決めている入門書も珍しいだろう。普通「入門書」というのは、何かを始める時に読むもので、だいたいその時期に焦点を当てていて、その後は「いつでもどうぞ」というところか。
しかし本当にいつでもいいかどうかは疑問で、始めるには遅すぎる、というタイミングは、何となくでも考えられているのではないだろうか。そこで「〜歳まで」と明記すれば、遅くてもこのころまでには始めてほしい、というメッセージになるだろう。
だから本書が「100歳まで」の哲学入門としているのは、100歳までには哲学を始めてほしい、あるいは100歳までやってほしい、と願っているということだ。文字通り100歳でなくてもいいのだが、いつ始めても遅くはない、生まれてから死ぬまで一生やってほしい、と言いたい。
年をとって物覚えも悪くなり、気力も衰えたのに、難しいことを考えるなんて勘弁してくれ!と思う人もいるだろう。
しかし老いもまた、人を哲学的にしてくれる。命の終わり、人生のはかなさ、むなしさを痛感させてくれる。抗っても確実に病み衰え、次第に社会から疎外され、忘れ去られていく。
増え続ける過去と減り続ける未来の中で、自分の成し遂げたこと、やり残したことを振り返る。最終的に人生を意味づけるのは何か、残すべきものは何か、体が動かなくなり、自分自身さえも忘れて、なお生きる意味は何か。自分が、家族が、社会が問われ、試される――老いたからこそ考えなければならないことがたくさんある。
そうした問いもまた、深い哲学的次元をもっている。しかもそれは、年老いた人たちだけが思い悩むべき問いではない。子どもも若い人も、考えるべき問いである。そういう意味で人は、老いて動けなくなり、まともに話せなくなったとしても、赤ん坊と同じように、哲学に参加できるのである。
思えば、哲学的な問いにまったく突き当たらない年齢など、あるのだろうか。人は生きているかぎり、そういう問いに取り囲まれているのではないか。それをいったい誰が引き受けるのか。誰かに任せておいていいのか。
まずは当の本人が考えなければ、誰も考えてくれない問いがたくさんある。しかもそれはどれも、自分だけで考えるにはあまりにももったいない。どんな年齢の、どんな境遇の人の問いも、哲学的なことを考えさせてくれる。だから、哲学というのは、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要であり、始められる――それがこの本のスタンスである。
だが、一生すべての人に必要な哲学とは、どのようなものなのか。
(次回に続く)
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