「この本を読んで『ふーん』で済まされては、私が嫌だ」と、哲学者の野矢茂樹さんが朝日新聞書評で絶賛してくださった、梶谷真司さんの『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』。梶谷さんは「哲学対話」との出会いをきっかけに「哲学は誰にとっても、いつも必要なものだ」と確信するに至りました。では一生すべての人に必要な哲学とは、いったいどのようなものなのでしょうか? 「はじめに」からお届けします。
(記事の最後に、代官山蔦屋書店での「哲学対話」イベントのご案内(2/15 19時~があります)
「存在するってどういうことだと思う?」などと口にしたものなら…
普通「哲学」というと、むやみやたらと難解なもの、意味が分からないもの、面倒くさいもの、余計なもの、厄介なもの、などなど、おおむね評判がよろしくない。当たり前のことをわざわざややこしく考えるひねくれ者、アマノジャクの所業だと思う人もいる。
好意的に見ても、この世界や人間について深〜い真理を探究するもので、そういうことに興味をもつ一部のスゴイ人、もしくはヘンな人を除けば、ほとんどの人には関係ない。多少の関心はあっても、自ら手を染めようとは思わないだろう。
かつては(そしてたいていは今でも)哲学が好きだとか、哲学を研究していると言えば、相手に困惑や反感を引き起こすか、さもなければ失笑を買うのが関の山だった。間違っても相手に歓迎され、意気投合して仲良くなるなどという展開は、よほど幸運な例を除けばありえない。哲学好きな人には、そういう話ができる友だちなどおらず、一人で悶々としているのが定番だ。
「ねえ、幸福っていったい何だろうね?」とか「おい、存在するってどういうことだと思う?」などと友だちに聞けば、気味悪がられたり、からかわれたりするのがオチだ。クラスで浮くか沈むかして、居場所がなくなる。「カントが『純粋理性批判』の中でさあ……」とか「ニーチェが超人の思想で言おうとしていたのはね……」なんて言おうものなら、後ずさりして離れていく友だちは、一人や二人ではないだろう。
親だったら大丈夫かと言うと、そんなことはまったくなくて、さらに危険だ。気味悪がられるのを通り越して、本気で心配されるにちがいない。「頭がおかしくなったんじゃないの?」とか「死んだりしないだろうね」とか。「この子は難しいことを考えるのが好きなのね」と喜んでくれるとしたら、親のほうが相当な変わり者である。
結局、どこであろうと、哲学に興味があっても、下手にそれっぽいことは口にしないほうがいい。それが正しい処世術なのである。
そういう人でも、大学で哲学を専攻すれば、あるいは、哲学の授業に出れば、同じような人に出会えるかもしれない。そこで運よく仲間ができれば、哲学の話が思う存分できる。
でもそれは、変人が寄り集まってさらに変になっていく入口だったりする。そして実際、世の人のネガティヴな印象を裏切らない人間になっていく(実際にはかなり普通の人も少なくない)。
結局、世間から見れば、哲学というのは、ごく限られた物好きや変人がやる怪しげな所業にすぎないのだ。
考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?