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モヤモヤするあの人

2018.09.10 公開 ポスト

蓄膿症の手術をし、36歳から始まった「人」としての生活
宮崎智之

ついに訪れた、青春の深呼吸

話が脱線しまくってしまったが、苦しい日々をなんとか耐え、ついに入院後の再診の日がやってきた。くしくもその日は、筆者の36回目の誕生日だった。日々の鼻うがいのかいもあり、その頃には綿球はだいぶ溶け落ち、鼻から空気を吸えるようになっていた。

しかし、鼻の中に装着されたシリコンが筆者を悩まし続けていた。これがある限り、鼻は完全に通らないし、なによりも異物感が気になりすぎる。本当に今日、シリコンを取ってくれるのだろうか。疑い深い筆者はそんな心配をしつつ、執刀医の診察を受けた。すると、執刀医は、鼻の中を管のような器具で覗き込み、「うん。だいぶ良くなりましたね」との一言で、あっさりとシリコンをとることを決断した。

「鼻うがいは、もう少し続けてくださいね」と釘をさす執刀医に、「あの、先生。鼻うがいは、ずっと続けてもいいんでしょうか。なんか健康にもいい気がするし。あと、どんどん上達していくのがうれしくて」と聞いてみた。執刀医は、少し驚いた顔をして、「珍しい患者さんですねえ。だいたいは、みなさん嫌がるものなのですが。では、処方できる分だけ、生理食塩水を出しておきましょう」と言ってくれた。

病院を出た筆者は、鼻から思いっきり空気を吸い込んだ。春の澄んだ空気が体の中に入ってくる。まさに青春だ。筆者はついに、完全なる「人」になったのだ。せっかくなら、あのシリコンを記念にもらってくればよかったな。そんなことを考えながら、清々しい気持ちで家路についた。段ボール1箱ぶんの生理食塩水を抱えて。

蓄膿症が治って、劇的に変わったことと、変わらなかったこと

最後に、蓄膿症の手術を終え、何が変わったのか成果を書いておかなければなるまい。

まず驚いたのが、食事が美味しくなったということだ。何を食べても美味しく感じる。最近、松茸を食べたのだが、それまで松茸はただのキノコだと思っていた。ただのキノコのくせに、妙にお高くとまっているキノコだ、と。しかし、今は違う。秋の匂いがするキノコになった。

あと、妻から指摘されたのが、トイレに行く回数が減ったということである。おそらく、鼻がつまっていたときは口で呼吸しがちで、喉が乾きやすかったのだろう。水分を頻繁にとっていたため、トイレが近かったのだ。これで長時間の映画も、安心して楽しめるようになる。

さらに筆者は長年、起床した瞬間、寝転んだまま枕元にある水で喉を潤す習慣があったのだが、鼻が通ってからそれをすると、鼻から水が吹き出してしまうようになった。ベッドの上で溺れてしまうのである。それまでは、喉と口の間にある何かが、水をせき止めていたのだと思う。

そしてなによりも、鼻を手術したことで、酒、タバコに次ぐ三大依存物質の一つとして筆者を悩ませていた「点鼻薬」がやめられたのが大きい。点鼻薬に「鼻チュッチュ」と愛称をつけて、「無人島に一つだけ持っていくとしたら絶対にこれ」とうそぶいていたほどの依存物質である(ないと頭がボーとして自我を保てないという理由から)。ラジオ出演の際の写真に容器が写り込んだり、インタビュー中に無意識にチュッチュして相手に驚かれたりもしていた。

酒もタバコも点鼻薬もやめた今、筆者は本当の自由を手に入れたような気がしている。

残る問題は、頭が冴えて原稿の質が上がったかどうか、ということである。頭が冴えたのは間違いないのだが、原稿の評価は読者に委ねるしかない。

ご存知ない方もいるといけないので一応言っておくと、筆者は『モヤモヤするあの人』という本を執筆した新進気鋭の書き手である。そのため、あまりに頭がスッキリしすぎて、モヤモヤしなくなるのもまずいのではないか、という思いもある。鼻がつまっていたからモヤモヤしていただけだった、というオチでは、本を買ってくれた読者に申し訳がたたない。

しかし、安心してほしい。筆者はまだモヤモヤしている。

退院して、ようやく睡眠導入剤がなくても寝られるようになってきたある夜、ベッドの上で寝返りをうった筆者は、枕元に置いていたグエちゃんを押しつぶしてしまい、アホみたいな鳴き声で目を覚ましてしまった。せっかく買ってあげたのに、恩知らずな奴だ。それ以来、グエちゃんは本棚の上に無造作に置かれている。彼(筆者はオスだと決めつけている)にとって、病院の売店にいた頃と状況はあまり変わらなくなってしまった。こんなことなら、もう少し粘って子どもの手に渡ったほうがよかったのではないか。その可能性は、限りなくゼロに近いとは思うが。

筆者は確認していないものの、新聞に薄汚いアヒルのぬいぐるみを買った青年(実は中年。年配のおばちゃんには40歳以下の男の顔なんて、ざっくりしか区別がついていないのだ)の話が載っていたら、それは筆者のことである。万が一にも優しい病弱な青年の美談に涙を流した読者がいるかと思うと、モヤモヤが止まらない。新聞も、そんなことに紙幅を割く余裕はないと信じたいが、仮にそんなことが起こっていたとしたら、日本中の人に謝りたいと思う。

やっぱり人間、鼻がつまっている時に判断したことは、誤りがちなのであろうか。つい出来心で買ったグエちゃんは、今日も間抜けな顔をして筆者を見つめている。

***
<イベントのお知らせ>
爪切男×ぱいぱいでか美×宮崎智之
「平成終了まで残り半年! 31年間のモヤモヤを語る会」

日時:2018年9月16日19時~21時(18:30開場)
場所 :本屋B&B(東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F)
入場料:■前売1,500yen + 1 drink ■当日店頭2,000yen + 1 drink
詳細、お申込みはこちら

関連書籍

宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに〝彼氏面〟するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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モヤモヤするあの人

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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