東京大学教授・梶谷真司さんは、5~20人ぐらいが輪になって座り、ひとつのテーマについて話し合う「哲学対話」を、学校や企業、地域コミュニティで実践してきました。その活動を通して「考えること」について考えた一冊が『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』。梶谷さんが言う「生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学」とは、考えることそのもの。それは、知識を得ることではなく、体験することなのだそうです。でも、哲学って、いったい体験なんてできるものなのでしょうか?
(記事の最後に、代官山蔦屋書店での「哲学対話」イベントのご案内(2/15 19時~があります)
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問い、考え、語る。分からないことを増やす。
数年前から、哲学対話に限らず、子どもを相手に哲学を教える機会が増えている。そのさい私が心がけているのは、哲学の思想や概念などの知識を伝えることではなく、彼ら自身が哲学的に考えること、言い換えれば、哲学を「体験」することである。そこでとくに中高生に対しては、簡潔に「哲学とは問い、考え、語ることです」と説明している。
私たちは、「問う」ことではじめて「考える」ことを開始する。思考は疑問によって動き出すのだ。だが、ただ頭の中でグルグル考えていても、ぼんやりした想念が浮かんでは消えるだけである。だから「語る」ことが必要になる。きちんと言葉にして語ることで、考えていることが明確になる。そしてさらに問い、考え、語る。これを繰り返すと、思考は哲学的になっていく。
それで小学校では、この「問う」をもっと強調して、「分からないことを増やそう」と言っている。学校をはじめ、世の中では、いろんなことを学んで分かることを増やし、分からないことを減らすのがいいとされる。哲学はその真逆である。分からないことがたくさんあれば、それだけ問うこと、考えることが増える。だから、どんどん分からなくなるのがいい、というのが哲学なのだ。
最近は、学校だけでなく、セミナーやワークショップ、地域コミュニティなどで、社会人、主婦、教員など、一般の人たちの前でも哲学の話をすることが増えたが、そのさいもこの二つの定義、「問い、考え、語ること」「分からないことを増やすこと」が、いちばん納得してもらえる。
さて、このような「問い、考え、語ること」という意味での哲学もまた、一般の哲学と同様、自問自答しながら「自己との対話」を通して一人で行うこともできる。だが、それはしばしば、孤独でつらい作業である。そういうことが好きだという、いわゆる哲学者気質の人種もいる。沈思黙考、物思いにふけるのに快感を覚える、そうせずにはいられない〝思考中毒〞の人間もいる。
とはいえ、そんなのは少数派の変人である。むしろ多くの人にとって、一人で考えるのは、面倒くさいことだろう。自分に語りかけていても、途中で行き詰まり、堂々巡りするだけで埒(らち)が明かない。退屈だ。だからやる気になれない。考えるなんて嫌いだ。
ところが、他の人といっしょにやると、考えるのは楽しい。他の人と話し、語りかけ、応答してもらえればうれしい。嫌にならずに続けられる。しかもそうすれば、思考はより深く、豊かになる。だからそのような「考える体験」としての哲学は、他者との「対話」という形をとる。つまり哲学とは、「問い、考え、語り、聞くこと」なのである。
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考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?