哲学は体で感じるしかない、体育会系の学問だ
私はいつのころからか、自分がものを考えている時の身体感覚に敏感になった。思考が深まる時、広がる時、行き詰まる時、それぞれ特有の感覚がある。こっちに行ったほうがいいとか、この方向で考えても仕方ないとかいう予感まで何となく体で感じる。
以来私は、哲学は体育会系の学問だと思っている。すなわち、知的というより、身体的な活動であって、何をもって「哲学的」と言うのかは、スポーツと同じで、実際に自分で経験してみて、体で感じるしかないのだ。哲学対話をやるようになって、その確信はいっそう強まった。
哲学対話においては、他の人との位置関係、机の有無、相手との距離、さらには、自分や他の人の姿勢、息づかい、眼差し、表情も思考の質と連動している。だから、対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる解放感、などなど。
人によっても違うし、深まったのか広がったのか、思考の質的な違いもあるだろう。ずっしり重く感じる人もいれば、モヤモヤしたある種の不快感を覚える人もいるだろう。だがそれでも、どこかに気持ちよさがある。人それぞれかもしれないが、哲学対話には、やはり普段は味わえない特殊な感覚があるように思う。
しかもこれは、輪になって座っている人たちがいっしょに感じているような印象がある。もちろん同時に同じものを感じているとは限らないし、そんなことは確認しようがない。それでも、その人たちとその場でいっしょに考えていなければ、そもそもそのような感覚をもちえないのは事実である。そういう意味で、いっしょに感じている、と言うことができる。
このような〝哲学的感覚〞を経験するのに、哲学の知識は必要ない。あれば助けになることもあるが、かえって妨げになるような気もする。知識としての哲学には、体験の次元がさほどなくて、ただたんに概念間のつじつま合わせに終始していても、どこに何が書いてあるかを言い争っているだけでも、よく分からない難しい言葉を使って「オレって難しいこと言えるんだぜ」的に悦に入っているだけでも、「哲学」だと言えてしまう。
哲学の知識を使っているから哲学的になるのだと思い、感覚のほうに意識を向けなくなるなら、知識はかえってないほうがいいかもしれない。私自身は、哲学の知識を使うかどうかよりも、感覚的に哲学的かどうかのほうが重要だと思っている。
哲学的であることが体の感覚で分かるということは、「体験」としての哲学というものが、知識として成立するずっと手前にあるということだ。人生のどこかで哲学的な問いに目覚め、知識としての哲学を求める人も、そこに向かわなかった人も、そもそも哲学に出会わなかった人も、もともとどこかでそういう感覚を味わったことがあるにちがいない。だからこそ、「対話」という形で哲学を体験した時に、多くの人が何か特別な経験をした感じがするのではないか。
そうした哲学の体験は個人的であり、主観的である。とはいえ、他者と共有できないわけではない。個人的であると同時に、体験としていっしょに感じている文字通りの「共感」が起きる。だから哲学対話は、共同で思考の深みと広がりを感じる哲学なのである。
(次回に続く)
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