学校でも会社でも、「よく考えろ」と言われます。でも、「考える方法」を教わったことはありますか? そもそも「考える」とはどういうことなのでしょうか? そんな問いに答えてくれるのが、東京大学教授・梶谷真司さんの新刊『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』。5~20人ぐらいが輪になって座り、ひとつのテーマについて話し合う「哲学対話」の活動をとおして、梶谷さんは、「私たちは考えることによってはじめて自由になれる」と言います。自由になることと考えることは、どんな関係があるのでしょうか? 本の読みどころをご紹介する最終回です。
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考えることで自由になる
ある哲学カフェを運営しているお母さんが、哲学対話を通して「物事を自分から切り離て考えられるようになった」と言っていた。そして「日常生活で負っている役割を脇に置いて私という個でいられる場」ができ、そこで「自由を体感できる」という。
ここには、思考と自由の関係が、きわめて的確かつ簡潔に言い表されている。蛇足になるかもしれないことを承知で、私なりにもう少し敷衍(ふえん)してみよう。
哲学対話で私たちは自ら問い、考え、語り、他の人がそれを受け止め、応答する。そして問いかけられ、さらに思考が促される。こうして私たちはお互いを鏡にして、そこから翻って自らを振り返る。
それは抽象的な言葉で言えば、「相対化」とか「対象化」ということだろう。自分自身から、そして自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる。その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる。自分を縛っていたも――役割、立場、境遇、常識、固定観念など――がゆるみ、身動きがとりやすくなる。
それは体の感覚としても表れる。先に述べたように、対話が哲学的になると、体が軽くなった感じ、底が抜けて宙に浮いた感じがする。その時おそらくは、自分が思い込んでいた前提条件が分かって、それが揺らぐか、取っ払われたのだ。
自分とは違う考え方、ものの見方を他の人から聞いた時、新たな視界が開けるのは、文字通り目の前の空間が広がって明るくなる開放感として表れる。今まで分かっていたことが分からなくなると、いわゆるモヤモヤした感覚、それこそ靄(もや)の中に迷い込んだ感じがする。
そうしたもろもろの感覚は、どこか似たところがある。何かから切り離された感じ。自分をつないでいたもの、自分が立っていた地盤から離れる。それは一方では、自分を縛りつけていたものからの解放感であり、他方で、自分を支えていたものを失う不安定感である。
解放感と不安定感――この両義的感覚は、まさしく自由の感覚であろう。それはある種の高揚感と緊張感を伴っている。対話の時に経験する全身がざわつく感じ、快感と不快感が混じった、どちらとも言えない感覚はそれなのではないか。
これはさしあたり私の個人的な感覚にすぎないかもしれない。しかし私自身は、哲学対話のさいにこのような自由の感覚を経験し、考えることで自由になれたのだという実感がある。
そして他の人の表情を見ていても、きっと同じような経験をしているのだという感触をもっている。参加者が眉間にしわを寄せて一見苦しげに見えながら、深いところで満ち足りていて、楽しんでいるように見える。この両義的な表情から、他の人たちも同じように自由を感じているように私には思えるのだ。
実際、前述のお母さんも言っているように、私たちは考えることを通してまさに自由を体感するのである。
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考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?