一人でなく、他者と共にあることで、自由になる
自由にはもう一つの重要な点がある。それは個人と自由との関係である。私たちは、自由であることと、一人であることをしばしば結びつける。一人のほうが気ままで自由だと考えることが多い。哲学でも「他者危害の原則」、すなわち「他人にとって害にならないかぎり、自由を認めるべきだ」という考え方がある。
日常生活の中でも、「誰にも迷惑かけてないでしょ」と言って、自分の行動の自由を正当化する人がいる。「あんたに関係ないでしょ」というのも、口出しするな、私の勝手にさせてくれという、自分の自由を主張するためによく使われるセリフだ。
このような表現からも分かるように、個人の自由にとって他者は〝障害〞とされることが多い。実際、個人どうしの利害や価値観、意向は一致しないのが普通であろう。ある人の自由は他の人の自由と衝突する。そこで他者との間で折り合いをつける必要が出てくる。他の人と関わることは、自由を制限するネガティヴな要因となる。
だから、自分のお金と時間を謳歌(おうか)するシングルをかつて「独身貴族」と呼び、逆に愛する人といっしょになって幸せなはずの結婚を「人生の墓場」と表現した。今でも、人といっしょにいるのは煩わしいと思う人はいる。一人で生きているほうが気楽だ、自由気ままでいられる。
たしかにそうだ。結婚も、人付き合いも、気をつかうだけ。相手が好きでも嫌いでも、いっしょにいることじたいが疲れる――そんなふうに思う人も多いだろう。だが本当にそうなのだろうか。本当にそれだけなのだろうか。
他者が根本的に自由の妨げなのだとすれば、他者と共に生きるのは、仕方がないからであって、できれば他の人などいないほうがいいのだろうか。だとすれば、人と関わって生きているかぎり、私たちの人生は妥協の産物でしかないだろう。
実際、他の人といることで譲歩したり、我慢したりしないといけないことはある。けれども他者と共にいても、あるいは共にいるからこそ、自由だと感じることもあるのではないか。それに私たちは、どこかでまず自由の〝味〞を覚えた後に、それが抑えられたり妨げられたりする状態として不自由さを感じるのではないか。
私たちは生まれてから(あるいは生まれる以前から)、他の人との間で、他の人といっしょに生きている。最初の自由の感覚は、そこで身につけたはずだ。その時他者は、自由の障害ではなく、むしろ前提だったにちがいない。他者との関わりがあるからこそ、個人の自由が可能になり、そのうえで他者が時に障壁になるのではないか。
だとすれば、この自由の感覚は、成長するにつれて、薄まることはあっても、けっして失われることはないだろう。私たちの自由を妨げるのが他者なら、私たちを自由にしてくれるのも他者だということは、実は大人になっても変わらないはずだ。
これはたんなる理屈ではない。対話において哲学的瞬間に感じる自由は、感覚じたいが個人的であり、主観的であるとしても、だからといって、他者と共有できないわけではない。そこで自分が感じる自由は、まさにその場で他の人と共に問い、考え、語り、聞くことではじめて得られるものである。だからそれは、他者と共に感じる自由なのだ。
こうして私たちは考えることで自由になり、また他の人といっしょに考えることで、お互いが自由になる――哲学対話は、このような固有の、そしておそらくは、より深いところにある自由を実感し理解する格好の機会なのである。
考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?