私がまだ静岡の実家にいた中学生か高校生だった頃、家族5人でよく焼肉屋に行った。とても美味しかったが、私の食べたい焼き加減で食べることができなかった。肉の大好きな父と、育ち盛りの弟が一緒だったせいだ。
お箸を持ち、お肉が焼けるのを、ボーッと見ていると、みんな父と弟に食べられてしまった。
私が、カルビを一枚、網にのせ、いい塩梅(ミディアムレア)に焼けるのを待っていると、あと3秒というところで、父の箸がさっと現れ、パクッと食べられてしまうのだ。
仕方がないから、また自分の近くの網にお肉を置くと、私が食べようとする一瞬前に弟に、パッと持っていかれる。もう一枚自分の前に置いたお肉を、食べようと思った矢先に、また父がパッともっていってパクッと食べた。
「私のお肉、とらないで」と怒ると、父は「網の上に陣地はない」と言って、ニヤリと笑ったのだ。あの時の父のニヤリとした大人げない笑い顔は、今でも忘れることができない。私は、怒り泣きし、不覚にも、焼肉屋で涙を流してしまった。
母が「ちょっと、いい加減にして、食べさせてあげてちょうだい」と父に注意してくれるまで、私はお肉を食べられなかった。それ以来、私は、カルビ、タン塩、ハラミは、レアの状態で食べるようになった。肉を奪い合いながら食べるのは本当に美味しかったが、私は、もうちょっと焼きたいなといつも思っていた。
大学生になって東京に行き、上品な人達と食べる焼き肉は、あまり美味しくなかった。「これ焼けているわよ。お先にどうぞ」などと譲りあっているうちに、お肉がウェルダンになり、固くなってしまうのだ。
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さすらいの自由が丘
激しい離婚劇を繰り広げた著者(現在、休戦中)がひとりで戻ってきた自由が丘。田舎者を魅了してやまない町・自由が丘。「衾(ふすま)駅」と内定していた駅名が直前で「自由ヶ丘」となったこの町は、おひとりさまにも優しいロハス空間なのか?自由が丘に“憑かれた”女の徒然日記――。