今日は令和をむかえて初の終戦記念日。元号が変わり気持ちの区切りはあっても、歴史は当然、地続きです。
平成を振り返った話題作『平成精神史――天皇・災害・ナショナリズム』の著者・片山杜秀さんと、2019年新書大賞第8位にランクインした『国体論 菊と星条旗』の著者・白井聡さんの全3回の対談から、昭和の権力システムと、平成におけるその揺らぎについて語った第1回を再掲します。「右翼思想家」「政財界のフィクサー」安岡正篤の行動と人脈から見えてくる、あの戦争前後を貫く時代の旅。
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戦前の安岡が目指した、暴力なき国家改造
白井 『平成精神史』は、片山杜秀さんという思想家の個性が色濃く出た一冊だと思います。片山節が炸裂していて(笑)、話し言葉の良い面が出ていますよね。かなり論争的な主張もあるのに、それを論争的だと思わせない技術には「なるほど、こういうふうに書かなくちゃいけないんだな」と感心しました。やはり、ストレートに「某国総理はバカ野郎だ」なんて書いちゃいけませんね(笑)。
片山 いやいや、それはつまり逃げて書いているだけで(笑)。
白井 まず第一章で安岡正篤(やすおかまさひろ)さんのことをかなり詳しく語られていますよね。これは戦前と戦後の連続性に関する私自身の問題意識とも深くかかわるので、大変興味深く読みました。
陽明学者の安岡正篤は、世間的には右翼思想家であり政財界のフィクサーと見られていた人物。かつては「平成」という元号を命名したのは安岡だという説が有力視されていました。どうやらそれは真実ではないようですが、日本の新しい元号を誰に相談しようかとなったとき、真っ先に名前が挙がる人物だったことは間違いないでしょう。戦前は北一輝や大川周明と行動を共にした時期があり、金鶏学院(きんけいがくいん)という私塾も開きました。
片山 金鶏学院はかなり本格的な学校で、東京の小石川にありました。講師陣も華やかで、たとえば日本近代右翼思想史の超大物で、黒竜会にも参加した権藤成卿(ごんどうせいきょう)も金鶏学院で授業をしていました。
この人は「制度学」という講座を持っていたのですが、それは日本の古代の自治制度についての授業なんですね。権藤の学問には「作り話」がたくさんあると言われていますけれども、要するに革命を教唆する授業で、歴史的に本当か嘘かはどうでもよかった。
権藤は、日本の統治の伝統とは下に任せて村に自治をさせて、政府は小さな政府でほとんど何もしないくらいでいい、政府なんてなくていいくらいのものだと言う。無政府主義なんですね。
権藤は、人民から多額の税金をまきあげて富国強兵を図る明治国家、近代国家が憎くてたまらなくて、革命を起こしたかった。しかし、権藤個人の新思想だと言うよりも、昔から日本はそうだったという方が、右翼革命の理論武装としては正しい。それで晩年、金鶏学院に入り込んで若者をそそのかしていたわけです。
金鶏学院の授業では、「正しい人の刺し方」まで教えたそうです(笑)。権藤によると「利き腕に刃物を持って刺しに行く人が多いが、これは失敗の原因だ」と。右利きなら、左手に刃物を持つのが正しい。では利き腕で何をするかというと、突っ込んで行って相手を背中から抱く。利き手で抱いて、そうでない手で刺す。そうしないと逃げられてしまう。刺すときに大事なのは、獲物を固定することで、そっちにいちばん力を使わないといけない。一瞬のことですけれども。そして、刺す力そのものはそんなには要らないのですね。
もしも金鶏学院の生徒になっていたら、権藤の「制度学」に出たかったですね。
白井 なるほど実践的ですね(笑)。
カルロス・ゴーンさんが拘置所に長期間閉じ込められて、「人権侵害だ」と批判されました。でも、血盟団事件の時代だったら、ああいう人物を釈放すると人権どころか人命が危ないので、拘置所にいたほうが安全でしたよね。いまでは、そういうような声が聞こえてこないあたり、平成のニッポンはやっぱりフニャフニャな社会になったのかなと(笑)。
片山 たしかに、昭和初期なら、金鶏学院の生徒か血盟団の団員か愛郷塾の塾生か、それとも陸海軍青年将校の誰かが刺しに行ったかもしれませんね。
ただ、金鶏学院に限れば、その目的はテロリスト養成ではありませんでした。北一輝や大川周明と袂を分かつことになった安岡は、官僚をはじめとするエリートを集めて、暴力を使わずに平和に国家を改造しようと考えた。
「論語」などの中国の古典を安岡流に正しく理解して人の道を身につけた官吏などが、道義的に国内を統治して模範を示す形でやっていけば、北や大川が考えるような暴力革命は必要ない。天皇の官吏が正義に目覚めて、日々の行政に東洋伝統の政治哲学や社会哲学を反映させて行けるならば、日々の行政行為がそのまま革命になるのだと。
安岡はそういう人材を育てるつもりで安岡は金鶏学院を作りました。権藤のような、幕末生まれで明治の革命右翼の生き残りみたいな人物も紛れ込んでいましたけれども、基本的に、あまり過激なことは教えない。
それで安岡に失望して、血盟団の井上日召(いのうえにっしょう)のところに行った人もおります。もちろん、井上日召も安岡の知友ですよ。安岡としては、「平和な革命」を目指したつもりでしたが、付き合いは「過激派」にまで広く及んでいるから、怖がる人は怖がりましたね。
それで安岡は「昭和の由比正雪(ゆいしょうせつ)」、金鶏学院は「昭和の張孔堂(ちょうこうどう)」と、週刊誌的レベルでは呼ばれていたわけです。「慶安の乱」のような体制転覆をはかる騒動を、いつか必ず起こすと思われていた。
由比正雪の背後には、講談などだと、紀伊徳川家の徳川頼宣がいたことになっていますが、安岡のバックにいたのは、旧姫路藩主の酒井家の当主で、貴族院議員の酒井忠正伯爵ですね。戦後は競馬や相撲やプロレスとつながる人ですが、いかにも右翼的でしょう。金鶏学院は酒井家の敷地を借りてやっていたのです。
安岡は金鶏学院だけでなく、有力官僚等をメンバーにした国維会というのも作りました。国家の維新ですね。たとえば国体明徴運動や二・二六事件のときの岡田啓介内閣ですと、内務大臣の後藤文夫、大蔵大臣の藤井真信、内閣書記官長、いまで言うと官房長官の河田烈、この3人が国維会のメンバーです。安岡を師と慕っている人がそれだけ内閣に入っていた。
安岡の「体制内革命」は決して口だけではなかったわけです。酒井忠正首班の「金鶏学院政府」だってありえたかもしれませんよ。もしも、安岡が、大川や北や権藤ともっとうまくやって、それぞれの支持者を糾合できていれば。まあ、でも、みんな仲が悪かったから(笑)、実際問題としては無理でしたでしょうね。
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