新しい元号が万葉集の巻五から採られました。それは、元号の歴史にとって、新しい第一歩を踏み出したことになります。というのも、中国の皇帝制度から生まれた元号が、日本文化のなかに根付いて、ついには和歌集の漢文序文から採用されることになったからです。
時は、天平二年(七三〇)正月十三日のこと。九州・大宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で、花見の宴が催されました。
お正月、梅の花見の宴です。梅は、当時、外来の珍しい植物でした。大宰府は、大陸との交流の玄関にあたる地であり、この地に赴任した役人たちは、その梅の花の白さに、魅了されました。
旅人宅に集まった客人たちは、次々に歌を詠みました。その三十二首の歌々を束ねて前文としてつけられたのが、梅花歌序文です。
その書き出しには、こうあるのです。
時に、初春(しよしゆん)の 令月(れいげつ)にして、
気淑(よ)く風 和(やはら)ぐ。
梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、
蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かを)らす。
これを、原文で示せば、「于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」となります。
おめでたい正月、よき時に集えば、天気に恵まれ、風もやわらかで、梅の花は鏡の前にある白粉(おしろい)のように白く、その匂いといったら、まるで匂い袋のようだ、と宴の日を讃えているのです。
よき時に、よき友と宴を共にする。それが、人生の最良の時ではないか、とは、かの王羲之(おうぎし 三〇三~―三六一)の蘭亭序にみえる思想なのですが、大宰府に集まった役人たちは、自分たちを、あこがれの中国文人になぞらえて、漢詩ならぬ和歌を作って、披露しあう宴を催したのでしょう。
天平の時代は、決してよい時代ではありませんでした。東アジアを取り巻く情勢は厳しく、政変と飢饉(ききん)は、人びとの生活を苦しめました。疫病も蔓延(まんえん)した時代です。ところが一方で、世界の美術史にも特筆すべきすばらしい仏像を造り、『万葉集』の歌々は、その後の日本の文学の源流となっています。どんな時代にも、人びとは平和な時を求め、新しい芸術と文化を模索していたのです。
「令和」という元号には、そういった平和への思いが込められていると思います。と同時に、天平文化へのあこがれも内包されているのではないでしょうか。万葉学徒のひとりとして、今、私はそんなことを考えています。
「令和」に込められた万葉ことばの心。おだやかな日を寿(ことほ)ぐ一三〇〇年前の先祖たちの思い。こういった言葉で自分の心も人の心も耕したいものです。
この本は、そんな思いで書こうと思います。
万葉集は、八世紀の中葉にできた歌集です。つまり、七世紀と八世紀に生きた人びとの歌が収められている歌集なのです。その数、四五一六首。二十巻からなる書物です。私は、「上野先生、万葉集って、どういう歌集なんですか? ひと口でいうと……」と聞かれると、こう答えることにしています。
八世紀の声の缶詰です
八世紀の言葉の文化財です
その万葉集に使われている言葉が、「万葉ことば」です。
「万葉ことば」などというと、何やら難しそうに聞こえますが、ようするに、古い日本語です。古い日本語ですから、日本語であることに変わりはありません。
言葉というものは、多くの人が使ってこそ、磨きあげられてゆくものなのです。だから、言葉は、伝統を守るものなのです。日本語を使うということは、
日本語の伝統のなかで言葉を使う
日本語の伝統のなかでものを考える
ということにほかならないのです。
だとしたら、「万葉集のことば」を学ぶということは、日本語の伝統のよき理解者になるということになります。なにせ、日本最古の歌集に登場する言葉なのですから。
私は、この本で、すべての日本人は万葉ことばに帰れ、などということをいいたいのではありません。そんなことは、もし望んだとしてもできないことです。私がいいたいのは、
万葉集に出てくる言葉を知ることによって、われわれは、こんなに豊かな言葉の世界を知ることができるよ。そうすれば、日本語の伝統のなかで生きていることが実感で
き、心を磨くことができるよということなのです。ですから、この本は、万葉集に出てくる言葉を使った、日本語練習帳といったところでしょうか。
言葉の深み、伝統にひたる楽しみを味わってみてください。
「令和」の心がわかる万葉集のことば
万葉集の巻五から採られた新元号の「令和」。そこに込められた万葉ことばの心、おだやかな日を寿(ことほ)ぐ1300年前の先祖たちの思い……。8世紀のことばの文化財・万葉集に使われている「万葉ことば」(古き日本語)を学び、心を磨く日本語練習帳。
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