7月11日の発売が迫るSID初のエッセイ『涙の温度』。
本書は、SIDの活動時期を四章に分けた構成で、第一章ゆうや→第二章Shinji→第三章マオ→第四章明希というメンバーのリレー形式で綴ります。
メンバーそれぞれの音楽との出会い、SIDとの出会い、15年の奇跡から未来へと続く物語。今回は特別に、それぞれの章の冒頭4ページを公開。
第一章は、ゆうやが綴る「息吹」。SID結成前夜から、現事務所との契約に至る物語です。
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第一章 息吹(ゆうや)
こんなはずじゃなかった。
これは完全に騙されたと言っていい。目を閉じていても、僕の顔の前を何かが不規則に、でもせわしなく動き回っているのがわかる。ブラシだとか、チップだとか、綿棒だとか、人間の指先だとか……そんなものたちが僕の意思とは関係なく顔の上を行き交う。
「動かないでください。アイラインずれちゃうから」
「あ、はい、すみません」
まつ毛が生えているところをなぞるような冷たい感触。こんなところを他人に触られたのははじめてだ。そんなところに鉛筆みたいなもので線を描くなんて、うっかり目に入ったらどうしてくれるんだ。
「もうちょっとで終わりますから」
もう三回は聞いたセリフだ。僕はかれこれ一時間近くもここに座っている。いや、座らされている。
今日、楽屋入りするや否や、メンバーの誰かの友達だろうヘアメイク担当だという女の人を紹介された。挨拶もそこそこに鏡の前に座らされ、赤ちゃんのよだれかけみたいに襟元にタオルをたくし込まれ、何本ものヘアクリップで乱暴に前髪を留められ、最終的に僕は鏡に映る自分のマヌケ面と対峙した。
(なんだこれは? 話が違うじゃないか)
そんな僕の背後で、真面目な顔をしたマオ君が言う。僕にではなくて、ヘアメイク担当の女の人にだ。
「じゃ、あとはよろしくね」
マオ君は僕を見て笑わないのか。こんなマヌケ面の僕が目の前にいる場面で、君は笑わないのか。これから僕がされることに何の違和感もないというのか、ヴィジュアル系ってやつは。
かくして僕は抵抗する術もなく、ただ求められるがままに己の顔を差し出していた。
というか、半ば諦めていた。ライブに出ると言ったからには出ないわけにはいかないし、そもそも僕は、言っても仕方がないことは言わないようにしている。
「化粧はしないって約束だっただろ?」
そんなこと、いまさら言ったところで場の空気が悪くなるだけだし、その空気を引きずったままステージに立つことになったら言うまでもなく最悪だからだ。流れに身を任せることが最良の選択というときも、人生にはある。
それにしても肩が凝った。そういえば腰も痛い。背中の真ん中あたりがムズムズと痒くなってきた。
「もうすぐ終わりますからね。あとはリップだけだから」
そうか、僕はついに唇も奪われるのか。何色かな、ヴィジュアル系だから紫かもしれない。
そんなことを考えていたら、なんだか腹の底がくすぐったいような感じがしてきた。笑える。これはものすごく笑える。
(俺、化粧されてるぞ!)
薄目を開けて、ちらっと見た。その瞬間、見てはいけないおぞましい何かが見えた気がして、すぐ閉じた。
(なんだ今の?)
もう一回、薄目を開けてみた。
(嘘だろ……)
今度ははっきり目を開けた。
「うわ……やられた。やっちまった」
小さな声で呟いたつもりだったけど、口をついて出た言葉は案外大きく響いたらしい。
ヘッドフォンで音楽を聴いていたマオ君が顔を上げた。
「お、めっちゃいいじゃん」
「え、ほんと? ほんとに?」
鏡に映った僕は、ごく控えめに言っても死んでいた。今ならハロウィンのパレードにこういうメイクの人はたくさんいるけれど、当時はまだそんな流行りもなく、僕はただの死神メイクを施された、いきすぎたヴィジュアル系の人だった。おそらく「キョンシー」とか「アダムス・ファミリー」とか、血が通っていないキャラクターの仲間だ。
自分の顔を見て喉元に込み上げてきたキモチワルさは、シドの最初のライブを観たときに感じたそれと同じだった。
ドラァグクイーンなのかオネエなのか知らないけれど、とにかくどぎつい化粧をして、わけのわからないキテレツな衣装をまとったバンドが不気味で気持ち悪くて、いわゆるヴィジュアル系とは無縁だった僕にはとうていついていけない世界だと思った。
それなのに、今の僕の風貌ときたら、すっかりそっちの世界に取り込まれている。
サポートを頼まれたとき、僕ははっきり言ったはずだ。
「化粧しなくていいならやってもいいけど……」
そのときマオ君もはっきりこう言った。
「うん、いいよ」
さらに、こうも言った。
「ドラマーにメイクなんて必要ないしね」
……この続きは、7月11日発売の書籍『涙の温度』(幻冬舎)でお楽しみください!
次回の更新は、7月6日16時を予定しています。
2019年7月11日、全国書店およびAmazonほかネット書店にて発売!
単行本 『涙の温度』SID・著
1600円(税込)/四六判ハードカバー/全244ページ/幻冬舎刊