7月11日の発売が迫るSID初のエッセイ『涙の温度』。
本書は、SIDの活動時期を四章に分けた構成で、第一章ゆうや→第二章Shinji→第三章マオ→第四章明希というメンバーのリレー形式で綴ります。
メンバーそれぞれの音楽との出会い、SIDとの出会い、15年の奇跡から未来へと続く物語。今回は特別に、それぞれの章の冒頭4ページを公開します。
第二章は、Shinjiが綴る「焦燥」。快進撃を始めた2004年頃から東京ドームのステージに立つまでの物語です。
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第二章 焦燥(Shinji)
いつものように、午前六時を過ぎた下りの電車に僕は揺られていた。車内は人もまばらで、ほとんどの人が目を閉じている。その中の四分の一ぐらいは酔い潰れた人たちだ。見るからに商売で飲んできた人と、その商売の客として飲みすぎた人。あとは僕みたいな若い奴がちらほら。深夜のバイト帰りなのか、飲み会帰りなのかわからないけれど、いずれにしろ大した夜を過ごしてはいないだろう。これから郊外へ仕事に出ると見えるスーツ姿のサラリーマンにしても、爽やかな朝の空気をまとっているとは言い難かった。
もちろん僕だって人のことは言えない。ロングシートの真ん中に腰掛けて豪快に足を投げ出してみても、残念ながら誰ひとり気にも留めないちっぽけな存在でしかない。それどころか、抱えた安物のギターケースが〝売れないミュージシャン〟感をいやがうえにも醸し出している。
時々、上りの電車とすれ違った。時間的には通勤ラッシュの少し前のはずなのに、どの車両もすでにすし詰め状態。人混みに押し潰されそうな若いサラリーマンと窓越しにちらりと目が合うと、僕の中にはちょっとした優越感が湧き上がった。
(満員電車に揺られる人生なんてまっぴらだ)
自分は世間の大多数の人間とは違うんだと思うことで、僕はいつも心を奮い立たせていた。だけど、他人を貶めることで得られる優越感なんて無意味だということも、本当は痛いほどに知っていた。
(俺、そろそろマジでヤバいかもな)
疲労感と眠気の中でさえ、焦燥感はしつこく僕を追いかけてきた。
その頃やっていたトリオのバンドの活動は、どこからどう見ても低迷していた。
なけなしのバイト代をつぎ込んで、メンバーそれぞれが限度額いっぱいに借金をして、それでも足りない分は親に頼み込んで工面してもらい、やっとの思いで自主制作CDを出したけれど、思い描いたような結果は得られなかった。一度も再生されることのないまま、部屋の片隅に高く積み上げられた売れ残りのCDが視界に入るたびに、なんとも言えない気分になった。一時期は百人を超えていたライブのお客さんも、僕らがそれに気をよくしてカッコつけて、ファンと距離を取り始めた途端に誰もいなくなった。
そのせいで家にもいづらくなっていた。
その当時、僕はまだ埼玉の実家暮らし。とっくに二十歳を過ぎていたのに家計を一銭も負担することなく、毎日好き勝手やっていた。家のことはもちろんやらないし、法事などにもまったく顔を出さないものだから、いったいシンジは何をやっているのかと、親戚一同から疎まれていたに違いない。
ろくでなし、ただメシ食らい、ゴク潰し、駄目ンズ……何と言われても、はいすみません、とうなだれるしかない。
昼近くに起き出しては冷蔵庫をあさってメシを食い、部屋にこもってギターを弾く。夕方を過ぎてからアルバイトに行き、そのままスタジオに入ったり、音楽仲間と飲みに行ったりして、帰宅するのは決まって翌朝だった。
それにキレたのは、常日頃から長渕剛さんを師と仰ぐ、七歳上の兄貴だった。
ガラッ! バーン!
(うわ、何⁉)
風呂場の扉がけたたましい音を立てて開き、思わず振り返ると、そこには鬼のような形相の兄貴が仁王立ちしていた。
「てめぇ!」
「え? ちょ、ちょっと、何だよ?」
僕はたじろいだ。なにしろこっちは素っ裸だ。
「いい加減にしろ!」
兄貴は裸の僕の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、湯気がもうもうと立ち込める風呂場に足を踏み入れてきた。靴下を履いているのに、だ。僕はそれがどうしても気になった。
「あのさ……足、濡れるよ」
その瞬間、兄貴の顔が真っ赤になった。子供の頃から僕にはそういうところがある。肝心なところから視点がズレるというか、どうでもいいことがやたらと気になってしまう。おまけに感情の起伏が表に出ないタイプで、場合によっては問題をのらりくらりとかわしているように見えて人を苛立たせてしまうらしい。特に怒っている人には、誤解されやすい。
「うるせぇんだよ、このやろう!」
兄貴はもう、頭頂部からマグマを噴き出していた。怒りに震える右手が伸びてきて僕の肩をむんずと掴む。
「てめぇ、なに鼻歌なんか歌ってんだよ! ふざけんな!」
「はぁ?」
「毎日フラフラしやがって。家に一銭も入れてねぇくせに呑気に歌なんか歌ってんじゃねぇ!」
ガン! ガシャン! ドン!
あっけに取られる僕を残して、兄貴はご丁寧に扉を閉めて去っていった。
(びっくりしたなぁ……)
僕はただ普通に風呂に入っていただけだ。体を洗いながら、ほとんど無意識にフフフン
……この続きは、7月11日発売の書籍『涙の温度』(幻冬舎)でお楽しみください!
次回の更新は7月8日16時の予定です。
2019年7月11日、全国書店およびAmazonほかネット書店にて発売!
単行本 『涙の温度』SID・著
1600円(税込)/四六判ハードカバー/全244ページ/幻冬舎刊