7月11日の発売が迫るSID初のエッセイ『涙の温度』。
本書は、SIDの活動時期を四章に分けた構成で、第一章ゆうや→第二章Shinji→第三章マオ→第四章明希というメンバーのリレー形式で綴ります。
メンバーそれぞれの音楽との出会い、SIDとの出会い、15年の奇跡から未来へと続く物語。今回は特別に、それぞれの章の冒頭4ページを公開します。
第三章は、マオが綴る「夜明け」。SID10周年アニバーサリーイヤーにマオを襲った苦難の舞台裏の物語です。
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第三章 夜明け(マオ)
何度も歩いたよく知る道なのに、この日は気分が違った。いつもなら三秒でうんざりする駅前の人混みも気にならなかったし、いつまでも変わらない信号にイラつくこともなかった。
僕は、これまでの人生でいちばん高い買い物をしに行くところだった。まだクレジットカードを持っていなかったので、革ジャンのポケットに札束を突っ込んで。
シドが事務所と本契約をしてからメジャーデビューする頃にかけて、僕らの生活は段階的に豊かになっていった。といっても、メンバー四人とも何もないところからのスタートだ。まずは人間らしい生活ができる広さの部屋に引っ越して、部屋のサイズに合わせてテレビやソファを買って、音楽プレイヤーをちょっとグレードの高いものに買い換えて、といったところだ。それぞれの趣味に投資するのはそれからだった。
僕には憧れの時計があった。
とても手が届く値段ではなかったけど、ショーケースやパンフレットを眺めては、自分の左手首にそれが巻かれる光景を想像してウットリしていた。
(プロのヴォーカリストとして地に足つけて生活できるようになったら、いつか絶対にこの腕に巻くんだ)
そう心に誓ってから数年近くが経っていた。
そして今日が、いよいよその日なのだ。
僕は朝から店に電話をして、目当ての時計がちゃんとそこにあるか問い合わせていた。答えは、イエス。ということは、憧れのあいつは数時間後には僕のものになる。大げさでも何でもなく、僕は本当にときめいていた。
「マオ君さ、このあとどうすんの?」
事務所で打ち合わせを終えたあと、ゆうやがそう聞いてきた。
「時計、買いに行こうと思って」
「え、前から欲しいって言ってたやつ?」
「そうだよ」
「へえ、なんかいいな。俺も買っちゃおうかな。一緒に行っていい?」
長年この胸に抱いてきた夢のひとつを叶えようとして緊張までしている僕の気持ちとは裏腹に、今にも鼻歌でも歌い出しそうに陽気なゆうやと連れ立って事務所を出た。大金を持っていたし、いざ時計を前にしたら緊張のあまり挙動不審になってしまうかもしれないから、ゆうやが一緒に来てくれて案外よかったのかもしれない。
「ゆうや、お金おろしたほうがいいよ」
「カード使えるんじゃないの?」
「使えるけど、現金のほうがちょっと安いんだよ」
「ほんと? じゃあ俺、コンビニ寄ってく」
これをケチとかセコいと感じるかは見る人次第だ。だけど、僕は今でもそういう感覚を大事にしたいと思っている。ディスカウントの額がほんの少しだったとしても、僕が使うお金は音楽が与えてくれたもので、ひいてはファンのみんなの想いから生じたものだ。無駄に使えばバチが当たる。
特にその頃はまだお金があることに慣れていなかったから、使うこと自体もかなりのエンターテインメントだった。欲しいものを買える自分が嬉しくて、コンビニだろうが洋服屋だろうが、これは僕が歌って得たお金だと意識した上で支払っていた。それが今度は、清水の舞台から飛び降りるぐらいの気合いを入れて時計を買うのだ。想像するだけでピンと背筋が伸びる。
店に着くと、僕は一目散に目当ての時計が入ったショーケースを目指した。いつもの場所にそれはあって、僕の迎えを待っていた。
実物を前に舞い上がりつつも、値札という現実を目の当たりにしたら、僕はこの期に及んでちょっと悩んだ。
(こんな高価なものを俺が持ってもいいんだろうか)
店員が寄ってきて、時計をショーケースから出し、僕の左腕につけてくれた。冷たい金属の感触と、なんとも言えない重量感。それは手首にピタッとくっついて、もう離れない気でいるかのようだった。
「やっぱりカッコいいなぁ」
僕はそれこそ少年のようにキラキラした目で時計を眺めていたはずだ。が、その刹那、
「じゃあ、俺はこれにしよっかな!」
と、その場に似つかわしくないほどに軽いノリで派手な時計を手にした男、ゆうや。
「それ、けっこう高いだろ。本当にそれでいいの?」
「うん、パッと見、これが豪華そうでいいなって」
それは控えめに言っても、控えめなところがまるでないギラギラした時計だった。
(一本目でそれかよ⁉)
そう思ったけど、ゆうやのゴキゲンに水を差したくなかったから、あえて言わなかった。
「マオ君が銀なら、俺は金にしよ!」
僕はこのとき改めて、ゆうやが大物であることを実感したのだった。
僕はというと、細部に至るまで好みの時計を自分のものにできて、心底嬉しかった。それは、頑張ってきた自分へのご褒美みたいなものだし、何かに到達したことの印のような
……この続きは、7月11日発売の書籍『涙の温度』(幻冬舎)でお楽しみください!
次回の更新は7月10日16時の予定です。
2019年7月11日、全国書店およびAmazonほかネット書店にて発売!
単行本 『涙の温度』SID・著
1600円(税込)/四六判ハードカバー/全244ページ/幻冬舎刊