◆80年代男子が生きた、あくびを噛み殺すような退屈
上野 そういうわけで、國分さんはやるべきことも、やりたいこともたくさんあって、大変お忙しそうなんですが、そもそもは『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)という本で世に出た人なんですよね。この本と今の「民主主義の闘士」との落差は何なんでしょうか。それをちょっとお話ししたいなと思って。
この本は大変評判のよかった本ですね。分厚い本なので、読んだらヒマはずいぶん潰れましたわ(会場、笑)。
國分 ありがとうございます(笑)。
上野 退屈しなかったかどうかは言いません(笑)。
ご本を読んで、そもそもなぜ暇とか退屈が哲学の主題になるのかを考えてみたんですね。今の若者のことはよくわからないんだけど、私がちょうどあなたくらいの年齢だった80年代のバブルのまっ盛りに、男の子たちは、あくびを噛み殺すような日々を送っていた。あの頃、自分と同世代の男の子たちを見ていて、「男っていう生き物は、ほんとに何もすることのない人たちなんだなあ。彼らはどうやってこの退屈を埋めながら世を過ごすのであろう」とつくづく思っていたことがあります。他方、まったく同じ頃、私たち女は、退屈してるどころじゃなかった。だって、セクハラあり、DVありで、怒ることがあまりに多い。それにいちいち対応していたら、退屈している暇なんかなかったんです。この差は何なんでしょう?
國分 ざっくりした質問ですね(笑)。簡単に答えると、生き方のモデルがすでにつくられているグループの人間は、不法侵入が起こらないのでものを考えなくて済んで、生き方のモデルがつくられていないほうの人間は、不法侵入がたくさん起こるからものを考える、ということじゃないですか。女の人のほうが、ものを考えるきっかけが単純に多かったということじゃないでしょうか。
上野 そういうことなんでしょうね。80年代の男の子たちは、バブル期は引く手あまたで、どんなに無能でも、就活なぞしなくても、ちゃんと正規雇用をゲットしました。椅子取りゲームの椅子が潤沢にありましたから。だから暇だったというのは、まあわかるんです。でも、それから約20年たって、男の生き方のデフォルトは崩壊したと私には思えるのですが、そんな今、『暇と退屈の倫理学』を書くキミは、いったい何者なのだ?
國分 どう答えたらいいんでしょうか(笑)。僕自身は、90年代の子なんですよね。「自分探し」などが盛んに言われていた時代です。小さいときから戦後民主主義の人たちによって、夢だ、希望だ、自由だと言われて育って、「あなたたちには輝かしい未来が待ってるのよ」なんてさんざん言われたけれども、未来はまったく輝かしくなんかなかった。僕はハイデガーの言うような、だだっ広くて何もない「広域」のなかに置き去りにされ、引きとめられているという状態を、実感をもって体験していました。簡単に言えば、何をしていいかわからないっていうことです。すでにある程度の達成がなされてしまったから。
僕自身は高校生のときから、いつも忙しくしてたんですよ。でもそれはもう、何とかして退屈から抜け出したいという、必死の忙しさでしたね。
上野 その気持ちは私もよくわかります。世の中で起きるべきことはすべて起きてしまっているという気分に、若者ほどなるものですよね。それこそ生あくびを噛み殺すような退屈という。
そういう男の子の気持ちをいちばんよく表したのは、敗戦後の三島由紀夫でしたね。死ぬことが予定されていた日常が終戦で突然終わり、これからお前は生きねばならぬと言われて、うんざりするような日常が目の前に広がった。そうしたらあとは自傷行為ぐらいしかやることないじゃないですか。その最終的な自傷が腹切りだったんですよ。これが男の子たちの実感だったんだろうなということが、三島を読めばリアルに伝わります。
そうか、80年代の余韻は、90年代半ばくらいまでは生きてたんでしょうか。それから日本はモデルなき疾風怒濤の時代になりまして、グローバリゼーションだのデフレスパイラルだの、想定外の不法侵入が次々と起きて、男の子にも退屈している暇がなくなったと私には思えるのですが。
國分 どうなんでしょうねぇ(笑)。