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彼女たちの犯罪

2019.12.11 公開 ポスト

不倫と不妊に悩んだ医者の妻の末路は横関大(小説家)

「由香里さん、この煮物、ちょっと味が薄いんじゃないかしら」
義母の神野素子に指摘され、神野由香里はまずは頭を下げて「すみません」と謝ってから、大根の煮物を口にする。たしかに味が薄い気がするが、それほど気にはならない程度だ。

それでも由香里は言った。
「お醬油が足りなかったのかもしれません」
「そうね。多分お醬油ね」
毎日必ず義母の素子と二人きりで昼食を食べるのが由香里の日課だ。

彼女が由香里の料理を手放しで褒めることはなく、必ず一言二言料理について指摘される。最初のうちはそれを次回に活かそうと思って日々作っていたが、結局どう作っても指摘されるということがわかって以来、適当に聞き流すことにしている。
「お義父さんのお帰りは何時ですか?」
別に興味はないが、一応訊いてみた。義父の和雄がゴルフに行っていると朝食のときに聞いていた。素子が味噌汁のお椀を手にとりながら答える。
「夕方じゃないかしら。今日はうちでご飯を食べるって言ってたから。智明は? 智明は今日は早く帰ってくるの?」
「今日は夜勤ではないので、いつも通りの時間に帰ってくると思います」
神野智明と結婚したのは八年前、二十六歳のときだった。

当時、由香里は世田谷区桜木にある世田谷さくらぎ記念病院でナースとして働いており、そこで一つ年上の整形外科医、神野智明と出会った。一年の交際を経て結婚、由香里は病院を辞めて専業主婦になった。

由香里は結婚後もしばらくは働いてもいいと思ったのだが、智明の勧めもあり、家庭に入ることになった。
世田谷さくらぎ記念病院から徒歩五分のところにあるマンションで新生活をスタートさせた。

智明は多忙な日々を送っており、由香里も彼をサポートすることに全力を費やした。

何不自由ない生活を送っていたのだが、二年前に智明の両親と同居することになった。
桜木地区は都内でも有数の高級住宅街として知られており、智明の実家も大きな邸宅だった。

延べ床面積は百五十平方メートルあり、たしかに智明の両親だけでは持て余す広さだった。
もともと智明は離れに住んでおり、そこを智明と由香里で使うことになったのは幸いだった。

四六時中義母の目が光っているわけではなく、離れに入ってしまえば一人きりになれるのが有り難かった。

もし完全に同居するとなると息が詰まってしまうだろう。
「お風呂の掃除、よろしくね。あとは買い物のリストも冷蔵庫に貼ってあるから」
「わかりました、お義母様」
由香里の一日は大体決まっている。朝、智明を送り出してから自分たちが住む離れの掃除と洗濯をして、その後は母屋のキッチンで昼食の準備をする。昼食後は今度は母屋の掃除をして買い物に行かなければならない。自分のことに──特にこれといった趣味があるわけではないのだが──時間を使っている余裕はまったくない。
「今日は〈栄松〉のお寿司にしようかしら。由香里さん、頼んでおいてくれる?」
「わかりました。夜七時でいいですか?」
「ええ。お願い」
栄松というのは駅前にある寿司屋のことだ。十日に一度くらいの頻度で出前をとる。しかも一人前五千円もする特上寿司だ。

寿司というのは贅沢な料理だという固定観念がある由香里にとって、十日に一度の割合で特上寿司を食べるという行為には今でも罪悪感がつきまとう。

しかし義母たちにとっては当たり前のことらしく、何の躊躇もなく注文を決めるのだ。
「お味噌汁だけ作っておいてね。できれば赤だしがいいわね」
「赤だしですね。わかりました」
由香里は三重県熊野市の出身だ。奈良県との県境に近い集落に生まれ、父親は林業の会社に勤めていた。父と母、それから祖父母と弟の六人家族だった。
由香里が住む集落には何もなく、高校を卒業し都会に出ようとずっと思っていた。

大阪、名古屋と選択肢はいくつかあった中、思い切って東京に出ることに決めた。両親は反対した。どうしても都会で医療の仕事に就きたいと懸命に説得し、何とか許しを得た。

大阪や名古屋あたりだと連れ戻されてしまいそうで怖かったので東京にしたのだ。
新宿の看護学校を三年で卒業し、高田馬場にある個人医院に勤めることになった。高齢の医師が一人いるだけの小児科医院だった。二年ほど勤めたが、院長である医師が高齢を理由に医院を閉鎖することになり、その院長に紹介されたのが世田谷さくらぎ記念病院だったのだ。
「由香里さん、そういえば三丁目の木下さんのところの娘さん、お子さんが生まれるみたいよ。今年の十二月が予定日なんですって」
「へえ、そうですか」
あからさまなプレッシャーだ。結婚して八年がたつが、由香里はまだ子供を授かっていない。義父母が孫の誕生を願っているのは明らかであり、こうしてことあるごとに遠回しに圧力をかけてくる。

特に義母はその傾向が顕著だった。オムツのテレビコマーシャルが流れるたびに、登場する子役の赤ん坊を見て「あら可愛い」と連呼する。
「ご馳走様。じゃあ由香里さん、お寿司の注文よろしくね」
 素子がそう言って席を立った。由香里は残っていた煮物を口に運んでから、食器を片づけるために立ち上がった。

(写真:iStock.com/ablokhin)

夫の智明が帰ってくる時間はまちまちだ。何もなければ午後七時くらいには帰ってくるのだが、夜九時や十時になっても帰ってこないこともある。

この日、智明が帰ってきたのは午後十一時過ぎのことだった。
「悪い。マツモトに急に呼び出されちゃってさ」
智明はそう言って詫びたが、その口調に悪びれた様子はない。

顔が赤く、酒を飲んでいることが見ただけでわかる。
「マツモト、結婚するんだって。これで残りはイマガワだけになった。俺はマツモトが最後に残ると思っていたんだけどなあ」
マツモトもイマガワも智明の大学の同級生で、同じ硬式野球部出身だ。

野球部仲間の結束は固く、今も定期的に顔を合わせているらしい。披露宴のとき、彼らは裸踊りで智明の結婚を祝福した。体育会系の男たちだ。
智明は冷蔵庫から缶ビールを出し、それを片手にソファに座った。

ビールを飲みながらテレビのニュース番組を見始めた。ちょうどプロ野球のニュースが流れていて、食い入るように画面を見ている。智明は大の巨人贔屓だ。
「お、勝ったな。よしよし」
非の打ちどころがない夫だと思う。医者で、スポーツマンで、実家も金持ち。顔も彫りが深くて整っている。

私とは釣り合いがとれないと結婚する前は本気で悩んだ。実際にそれを智明に告げたところ、無理に背伸びをする必要はないと彼から言われた。

由香里と一緒にいると落ち着くんだよ、俺。そう言って智明は笑ってくれた。
「そうだ、智明さん。今日ね、栄松のお寿司をとったの。余ってるけど食べる?」
この離れは二階建てで、簡易なキッチンもあるし、バス・トイレもついている。

智明が高校生のとき、両親に無理を言って作ってもらったらしい。早めに独立したかったというのが理由のようだが、大学時代には麻雀部屋として野球部員たちが入り浸っていたという。
「腹一杯だな。最後にお茶漬けまで食べたから」
「そう。明日の朝までもたないよね」
「捨てちゃえよ。どうせ母さんが払ったんだろ」
五千円もする特上寿司だ。それを簡単に捨てろという夫の経済感覚は理解できない。

こればかりは生まれの差だから仕方がないと由香里は半ば諦めていた。智明は曽祖父の代からここ桜木の高級住宅街に住んでいる根っからのお金持ちだ。

三重のど田舎で生まれ育った私とは違うのだ。
「お義父さんが話があるって言ってたわよ」
 近いうちに話をしたいと智明に伝えておいてくれ。夕食のときに和雄にそう言われたことを思い出した。
「どうせ大学病院に来いって話だろ。何度も断っているのにな」
 智明の父、神野和雄は聖花大附属病院の外科部長だ。

五十九歳なので来年定年を迎えるようだが、うまくいけば病院の院長になることができるらしい。和雄が息子に大学病院に来てもらいたいと願っているのは智明から聞かされていた。しかし本人にはその気はなく、今の環境に満足しているようだった。
「さて、風呂入ってくるか」
 そう言って智明が立ち上がった。由香里はテーブルの上に置かれたままになっていた缶ビールの空き缶をとり、それをゴミ箱に入れる。冷蔵庫を開けて中を覗くと、ラップに巻かれた寿司桶が入っている。一人前の特上寿司だ。
寿司桶を出した。ラップを外して、トロをつまんで口に運ぶ。

それほどお腹は空いていないが、やはりトロは美味しい。全部は無理だと思うが、半分くらいは食べられるだろう。貧乏性と言われようが、この寿司を捨ててしまうことなど私にはできない。
自分の置かれた環境が恵まれたものであることを由香里は自覚している。桜木の高級住宅街に住み、ベンツに乗って買い物に行く。上京してきたときには想像もしていなかった生活だ。

あの頃の自分に今の生活を見せてあげても、決して十八歳の私は信じないだろう。
「まだテレビ見るから、先に寝てていいぞ」
バスルームの方から智明の声が聞こえた。

口の中に入っていた寿司を咀嚼して飲み込んでから由香里は答えた。
「わかったわ」
寝室は二階にある。大抵先にベッドに入るのは由香里だった。

今年に入ってから夜の営みはない。最後にあったのは去年の十一月のことだった。あれからもう八ヵ月もたっている。
夫が浮気しているのではないか。

現に病院で働いている頃には医師と不倫をしているナースを数多く目にしてきた。智明がそういうことをしないとは言い切れないし、仮に浮気をしていても何ら不思議もなかった。

もし本当にそうだったら、私は智明を糾弾するだろうか。それとも文句一つ言わずに許すだろうか。
いずれにしても義母の素子は間違っている。

孫が生まれないのは嫁に責任があるわけではない。私を抱かない夫に問題があるのだから。


由香里はアナゴの寿司を口に運ぶ。柔らかく煮られたアナゴは口に入れた途端、ほろほろととろけていった。

*   *   *

続きは『彼女たちの犯罪』でお楽しみください。

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関連書籍

横関大『彼女たちの犯罪』

海であがった女性の死体。事件の影には、 彼女と彼女と嘘と罠。 医者の妻で義理の両親と同居する神野由香里。夫の浮気と、不妊に悩んでいたが、ある日失踪、海で遺体として発見される。自殺なのか、他殺なのか。原因は浮気なのか、犯人は夫なのか。一方、結婚願望の強い日村繭美は、"どうしても会いたくなかった男“に再会。しかし繭美は、その男と付き合い始めることになりーー。 ラストのラストまでドンデン返しに次ぐどんでん返し。女たちの企みとは、嘘とは、罠とはーー。 不妊、不倫、未婚、子育て、セクハラ、パワハラ。いつの時代も女の人生は険しい 。 『ルパンの娘』の著者、最新刊!

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彼女たちの犯罪

乱歩賞作家横関大さんの単行本最新刊『彼女たちの犯罪』の特集記事です。試し読み、著者インタビューなど。

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横関大 小説家

1975年静岡県生まれ。武蔵大学人文学部卒業。2010年『再会(受賞時「再会のタイムカプセル」を改題)で第56回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。著書に『グッバイ・ヒーロー』『チェインギャングは忘れない』『偽りのシスター』『沈黙のエール』『K2 池袋署刑事課神崎・黒木』『スマイルメイカー』『マシュマロ・ナイン』『仮面の君に告ぐ』『いのちの人形』、ドラマ化された『ルパンの娘」や同シリーズの『ルパンの帰還』『ホームズの娘』などがある。

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