1月15日、米中貿易交渉の第一段階「合意」の署名式が行われましたが、貿易戦争の火種はまだ残っていると言われます。香港のデモはまだ鎮静化の兆しがなく、台湾総統選挙では蔡英文氏が圧勝。今年も中国の動向が世界中の関心を集めています。そんな中国を徹底取材した話題作、峯村健司さんの『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』(朝日新書)から「序章 異形の超大国は何を目指しているのか」をお届けします。
ワシントン特派員も経験した峯村さんが2020年の米中関係を読み解く、講座[米中激突! どうなる「新冷戦」]も申込受付中です。
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警察車両に取り囲まれて
子どものころから、勘が働く方だ。予知能力などという大層なものではないが、これから起こりうる事を察知できることがしばしばあった。記者になってからも、現場の聞き込み取材や事件の全体像を見通す「筋読(すじよ)み」をするときにおおいに役立った。こと悪い予感に関しては、よく当たった。悪い事が起こる前にはきまって、何とも言えない独特な胸騒ぎがするからだ。土砂崩れや洪水の現場を取材していて、事前に異変を察知して二次災害から逃れたこともあった。
中国内陸部、四川(しせん)省の省都、成都(せいと)市。三国時代に蜀(しょく)の都にもなった南西部の要所として発展してきた。夏はとても暑く、冬は寒くて乾燥する気候だ。
2011年1月7日、郊外にある小料理店で、私は冷え切った体を温めようと唐辛子と山椒が利いた四川料理を食べ、度数52度の白酒(パイチウ)をあおっていた。
中国軍が開発を進めている次世代ステルス戦闘機「殱(せん)20」の撮影に成功し、世界にさきがけてその姿を報じることができた。その写真は香港や韓国などのメディアにも転載された。戦闘機を製造していた航空機メーカー「成都航空機工業集団」での撮影を終え、早めの昼食をとっていた。
この日朝から、胸に小刻みな鼓動を感じてはいたが、一仕事を終えた開放感の方が勝っていたのだろう。朝から何も食べていなかった空腹感を満たしたい欲望があったのも否めない。取材に協力してくれた関係者らと杯を交わし、一抹の不安を打ち消すかのように勝利の美酒を体に注ぎ込んだ。
気分が良くなったところで店の外へ出ると、4台の警察車両に店を取り囲まれていた。武装警察らしき当局者も見えた。これまで何度も中国内で取材中に拘束されたことはあったが、尋常ではない物々しさを目の当たりにし、ひざの力が抜け、倒れそうになった。
3人の大柄の男性警察官が近づいてきて、無言で私の腕を取り押さえた。
「何の容疑なのか」「令状はあるのか」
何を尋ねても、3人とも鉄仮面のような表情を崩さず、私を車に押し込んだ。車内でも沈黙が続き、張り詰めた空気が漂っていた。実際に車に乗っていたのは20分ほどだったが、ずいぶんと長く感じた。
詳細は後章に譲るが、私はこの後警察署に連行され、長時間の取り調べを受けることになる。
リスクをとって現場を目指す
中国当局に拘束されたのは、この時だけではない。北京に赴任した2007年以来、短時間のものも含めれば、特派員として勤務した6年間で20回は越える。
捕まりたくてやっているわけではない。もちろん冒険心や蛮勇を振るっているのでもない。拘束されるたびに恐怖にさいなまれる。取り調べ中、足の震えが止まらないことや緊張から言葉に詰まることもしばしばあった。釈放後も不眠に悩まされることも少なくなかった。
すべての法や規則よりも中国共産党の指導が上回る国だ。当局から一度目を付けられたら、都合のいいように法規則を解釈され、不合理な法執行をされかねない。実態を知っている私だからこそ、そんな恐怖を常に感じていた。
それでもなぜ、リスクをとって現場を目指したのか。
北京に赴任して最初の仕事は、国営新華社通信の端末の前に座ってニュースをチェックすることだった。今はインターネットでどこでも見ることができるが、当時は端末で確認するしかなかった。必要なニュースがあれば、それを翻訳して「新華社通信によると」という記事を書くのが日課だった。
しかし、私は記事を書くたびに違和感を覚えていた。
もし日本で朝日新聞が「読売新聞によると」「NHKによると」という記事ばかりの紙面を発行したらメディアとして成立するだろうか。朝日新聞は、英語版や中国語版のウェブニュースを出しているが、新華社通信を引用した記事を中国人がわざわざ読むだろうか。中国の官製メディアの記事を翻訳するために特派員になったわけではない。何とか独自の報道ができないだろうか。暗中模索が始まった。
中国政府の記者会見にはできるだけ足を運び、一番前に座って質問をし、会見後にも当局者を追いかけて食らいついた。トイレで待ち伏せしたこともあった。しかし、返ってくる答えは発表資料とほぼ同じ。インタビューを申し込んでもなしのつぶて。人民解放軍に至っては、報道担当者の連絡先すら公表されていなかった。日本政府とは比べものにならないほどの厳しい情報管理と報道規制という壁が立ちはだかった。
事務所内で頭を抱えていると、駆け出し時代にデスクからしばしば怒られた言葉がふと、頭をよぎった。
「悩んでる暇があるんだったら、さっさと現場に走れ」
そうか。特派員だからといって特別な存在ではない。中国だろうがどこだろうが、新聞記者の基本は現場にあるのだ―――。
そう思い直した私は、当局の発表に限らず、インターネット上のうわさがあれば、中国全土のどこへでも向かった。
軍事関連の工場や北朝鮮との国境、サイバー攻撃の発信源……。
いずれも中国当局が神経をとがらせる場所ばかりだった。だが、事前に綿密な下調べをしつつ、厳しい監視の目をかいくぐりながら、核心に迫ろうとした。
冒頭の最新鋭ステルス戦闘機のスクープもこうした潜入取材が奏功した例の一つだ。
国際秩序を塗り替える
取材成果については紙上で公表してきたものの、その過程について明らかにする機会はほとんどなかった。決して誇れるような経験ばかりではなかった。そもそも取材手法は明かすものではない。自分だけの記憶にとどめておくつもりだった。
しかし、最近、急ピッチで変わっていく中国を見ていて、胸騒ぎがするようになった。
これまで聖域だった軍や党の高官を含めた大規模な反腐敗運動。空母建造を含め急速に進む軍の近代化。米国の覇権に挑むような強硬な対外政策……。
中国は、数年前には予想もつかなかったようなスピードで超大国、米国を猛追している。日本を取り巻く安全保障情勢だけではなくアジアの地政学をも吹き飛ばすほどの勢いで、米国が築いた国際秩序をも塗り替えようとしている。
異形の超大国が何を目指しているのか。その能力はどれほどのものなのか。中国の原点をしっかりと検証し、分析する必要がある。そう感じた。
私は、2007年からの6年間、5年に1度開かれる中国共産党大会を2度取材した。胡錦濤(こきんとう)指導部から習近平(しゆうきんぺい)指導部への移行過程を追ってきた。
その間、北京五輪が開かれ、米国発のリーマン・ショックをきっかけとして、中国は国際的な地位を一気に高めた。日本の国内総生産(GDP)を追い抜き、米国の背中を追うようになった。こうした経済成長の果実を惜しみなく軍事費につぎ込み、急速な近代化を進めている。
その足元では何が起きていたのか。31の省、自治区、直轄市のほとんどに足を運んでこの目で見てきた。
中国軍や共産党の真の狙いや実力は、臆測や伝聞ではわからず、しばしば見誤ることもある。現場でこの目で確認してこそ見えてくる。
「記者は現代史の最初の目撃者」と言われるならば、その軌跡を後世にしっかりと記録として残す責務があるのではないか。
こう自問しながら筆を執るに至った。約40冊の取材ノートと当時の写真を取り出し、時に胸躍り、時に思い出したくない記憶を呼び戻した。
これまでほとんどの人が立ち入ったことがない、いやこれからは二度と入ることができないかもしれない現場に読者のみなさんと一緒に向かおうと思う。
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*この続きは『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』(朝日新書)でどうぞ。
*1月30日19時から、峯村健司さんが米中関係の最新情勢を語る講座[米中激突! どうなる「新冷戦」]が開催されます。詳細はこちら、幻冬舎大学のページから。
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米中激突!どうなる「新冷戦」
「イデオロギーの対立・軍事対立・陣営拡大の対立」を「冷戦」の三要素とするなら、現在の米中関係は明らかに冷戦、それもより危うい「新しいタイプの冷戦」だと見るのは、朝日新聞国際報道部記者で、元ワシントン・北京特派員の峯村健司さん。
峯村さんは北京特派員時代には胡錦涛から習近平への政権交代を取材。拘束二十数回という危険をかいくぐり、厳戒現場への潜入取材を続けました。ワシントン特派員時代にはオバマからトランプへの政権交代、そして史上初の米朝首脳会談も取材。
徹底した現場取材で培った知見と、米中両政府の要人との独自人脈から得た情報をもとに、米中新冷戦の正体とその行方、日本のとるべき道を探る連続講座です。