「植松聖という人間とは一体何なんだ」という思い
――この事件については取材しながらどのように感じていたのでしょう?
石川 僕は遊軍の前は県警で捜査一課を担当していたので、最初は障害のある方たちが被害に遭ったということよりも、殺人事件としての取材の入り方をしていました。
まず、植松聖がどんな人間なのか、なぜ元職員が夜中に侵入して19人も殺したのか、彼の動機は何なのか、というところから取材に入っていきました。そこから結局、植松との関係が続いていきます。
川島 僕もそうでしたね。もともとカポーティの『冷血』のような、加害者に徹底的に取材して書くような報道を新聞記者としてやってみたい気持ちがずっとあったんです。
――植松に接見できるようになったのはいつからでしょう。
石川 事件から半年経った2017年の3月です。植松はまだ津久井警察署の留置場にいました。接見禁止が取れて朝日新聞と東京新聞が動いているらしいという情報を聞き、慌てて津久井署に車を走らせたのですが、毎日新聞にタッチの差で先を越されて、我々は4番目でした。
接見できるのは1日1組なので、最初の日は接見できなかったんです。翌日以降も待たなければいけなかったので、近くに宿を取って津久井署の前で他社に先を越されないように朝を待っていました。植松と会ったときは寝不足でフラフラでしたね。
接見はだいたい30分ですが、最初の接見のとき、植松は自分で言いたいことだけを一気に言って、こちらの質問には答えずに10分程度で強制的に打ち切られました。当時はまだ植松も接見に慣れていませんでしたね。
――初めて目の当たりにした植松の印象はいかがでしたか。
石川 向かい合うまでは「どんな人間なんだろう」と思っていました。1時間の間に45人を刺したような男で、非常に考えが偏った人物だとも聞く。そんな風に身構えていたのですが、背中を丸めた小柄な人間が目の前に現れ、非常に礼儀正しく、深々とお辞儀をして、「ご足労いただきありがとうございます」と言うわけです。だから、最初は面食らいました。「えっ? 本当にこいつか」と。基本的には今もその当時の印象は変わっていません。
田中 最初に接見したとき、僕は県警担当デスクだったので、上がってきた原稿を見たんですよ。石川が書いたものではありませんでしたが、原稿の中に「文学青年のようだった」というフレーズがあったんです。
僕は現場の記者のその感覚を大事にしたいと思いますが、最終的にはそのフレーズを掲載しませんでした。もちろん第一印象は大事ですし、伝えることが記者です。ただ、あれだけの事件を起こした人物像を、わずかな時間のやり取りだけで判断することは難しいと考えました。植松に対して肯定的なニュアンスで書かれているとご遺族が感じるのではないかとも思いました。その判断で良かったとは思います。その後の接見では文学青年らしからぬ態度も見せていますし。
ただ、接見した記者の感覚も間違っていなかったんじゃないかと思います。僕自身も1回接見しましたが、結局、植松は最初から最後まで変わらずにいたんだな、と感じています。
一つだけ言いたいのは、それぞれの現場記者なり、デスクなりが、真剣にこのときから「植松聖という人間とは一体何なんだ」という思いを持ち続けて、心を砕いてきました。ずっと彼が変わらなかったように、それは僕たちも変わらなかったことです。
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やまゆり園事件
〈目次〉
第1章 2016年7月26日
未明の襲撃/伏せられた実名と19人の人柄/拘置所から届いた手記とイラスト
第2章 植松聖という人間
植松死刑囚の生い立ち/アクリル板越しに見た素顔/遺族がぶつけた思い/「被告を死刑とする」
第3章 匿名裁判
記号になった被害者/実名の意味/19人の生きた証し
第4章 優生思想
「生きるに値しない命」という思想/強制不妊とやまゆり園事件/能力主義の陰で/死刑と植松の命
第5章 共に生きる
被害者はいま/ある施設長の告白/揺れるやまゆり園/訪問の家の実践/“成就”した反対運動/分けない教育/学校は変われるか/共生の学び舎/呼吸器の子「地域で学びたい」/言葉で意思疎通できなくても/横田弘とやまゆり園事件
終章「分ける社会」を変える