――竜二、十八歳の夏
見下ろした眼下に、周防灘の青い海原が広がっている。もうあと数分もしたら北九州空港に着陸する。
竜一、計画どおりだ……。
今朝一番に、警察から下宿先に連絡があった。一昨日、実家が全焼した。焼死体が三体、身元確認をお願いしたい……。
やはり警察の捜査はあなどれない。火事からわずか二日の空白だけで、東京の下宿先をつきとめた。
竜一に勇気づけられた言葉を嚙み締める。
竜二、自然に振る舞うんだ。ことさら悲しい顔をしたり取り乱したりする必要はない。小さいころからそうだったろう、おまえの流す涙には誰もが騙され、信用してしまう。あのくそっタレの親父やお袋ですらそうだったじゃないか。おまえのちょっとした悲しい顔つきや素振りに、周りの大人たちは皆胸を打たれてしまう。どんなに顔や姿形が似ていようと、おれとおまえにはたった一つの相違点がある。おまえには天性の豊かな感情表現の術が備わっている――。
機体が傾いた。着陸態勢に入った。
竜一、さあ、いよいよおれの出番だ。
太陽の光を反射して、一直線に延びたアスファルトの滑走路が光り輝いている。
まるでこれから先のおれと竜一の人生を示唆しているようだ。滑走路は行き止まる。しかしおれたち二人の人生に行き止まりなどない。
ゲートをくぐろうとしたとき、一瞬ぎょっとした。耳をつんざくような黄色い声。中高生らしきガキの女たちが送迎口を占領し、手を振っている。
振り返ると、ロングヘアーにサングラスという同じようなファッションで身を固めた四人組が、Vサインをだして得意顔で応じていた。
来るとき機内の最前列をわが物顔で陣取っていたあの連中だ。テレビで見たことのある、人気急上昇中のロックバンドの面々。
せいぜいちやほやされるがいい。今だけの、ほんの一瞬だけの主役たち。おれたちは抜け出したんだ。先の見えない、あの地獄のような真っ暗なトンネルから。おれたちの人生はやっと今、スタートラインについた。終わりのない、輝くようなスタートラインに。
ロビーを急ぎ足で横切った。バス乗り場に向かう。
日豊本線の下曾根の駅で電車に乗り換えて小倉に。
北九州市戸畑区――。すでに灰と化した想い出すのも忌まわしい実家は、小倉の北、洞海湾に面した製鉄所の裏側になる。しかし遺体は、司法解剖のために市の中心街にある警察病院の霊安室に移送されているらしい。
窓の外に流れる田畑、家並み――。これで見納めだ。二度とこの地に足を踏み入れることもないだろう。
小倉警察署。頭上の太陽と建物を見比べて大きく深呼吸をした。緊張と不安。
竜一……。つぶやき、もう一度深呼吸をすると、嘘のように緊張と不安が身体から抜けていった。
「矢端竜二と言います」
受付で、連絡をよこした刑事の名を告げた。
一分も待たされなかった。痩せた五十ぐらいの男が現れる。
「矢端竜二です」
もう一度名を言った。
竜一は死んだ…。頭を下げながら胸につぶやく。涙が自然にあふれ出てきた。
「あんたか。なんと言うたらいいか……」
男が気の毒そうな顔をし、慰めるように二、三度大きくうなずいた。
階段を上がり、「取調室」と書かれた二階の一部屋に案内された。
三十過ぎの、別の刑事がお茶を運んできて男の背後のデスクに腰を下ろす。
「まだ信じられんとです」
出されたお茶には手を触れず、顔をうつむかせる。竜一は死んだ……。涙が後から後から頬を伝う。
「そうやろうな」
気持ちの落ち着くのを待つかのように男がたばこに火をつけた。煙が部屋に漂う。
しかし、なんてくそ暑い部屋だ。風通しもなにもない。背中に噴き出した汗がシャツを濡らす。
「こちらも仕事やけんな」
男が警部補の肩書きのついた名刺をテーブルに置き、おもむろに口を開いた。
「一応、火事のときの状況を先に話しておこう」
深夜の三時ごろに火の手が上がった。折りからの強風で、火はあっという間に家全体を飲み込んだ。
「知っとるように、当日のその時刻、台風十六号がこの街を直撃しとった。消防車が駆けつけたときには、もう手の施しようがなかったと。運が悪かったとしか言いようがなか。それにしても……、なぜあんなときに、しかもあんな深夜の時刻に焼却炉を使用したのか、それがどうしても理解できん」
そう言って、男が顔を歪めた。
火事が発生する少し前の時刻、たまたま近くの住人がトイレに立ち、焼却炉の煙突から立ち昇る煙を目撃している。注意しにいこうかとおもったぐらいだ、との証言も得られたとのことだった。
竜一は死んだ……。頭を垂れ、無言で男の話に耳を傾けた。
「焼け跡の、居間から二遺体、二階からは一遺体が発見された。火事が原因らしか外傷があるだけで、目下んとこ、遺体にはこれといって疑わしい点はなか。たぶん焼却炉の火の不始末が原因やろ」
完璧だ、竜一……。警察はこれっぽっちも疑ってはいない。涙がまた頬を伝った。
「ご両親が、そんな時刻に焼却炉を使用したともおもえんしな」
「兄は……、兄は無性に気持ちがむしゃくしゃしたときなんか、時として焼却炉の火を見つめて考え事ばすることがありました。燃えさかる炎を見つめとると、妙に気持ちが落ち着くのだと……」
「そうか……」
合点のいったかのようにうなずき、男が後ろでペンを走らせる刑事を振り返る。そして椅子から立ち上がり、竜二の肩にそっと手を置いた。
「残された近親者はあんた一人なんや。辛いかもしれんが、遺体の確認作業ばしてもらわないけん」
震える肩で同意を示した。
「ところで、あんたら兄弟は一卵性の双生児だったらしかな」
「はい。ここまで育ててくれた両親にやっと恩返しができるとおもってた矢先に、こんなことに……」
育てられた? 冗談じゃない。あの鬼畜のような二人は、けちで、ずる賢く、小さいころから満足に食べ物すらもくれなかった。空腹に耐えかねて、おれたち兄弟は深夜に家を抜け出しては、畑のトマトやきゅうりを盗み食いしたものだ。そして、まるで家畜を扱うように、廃品回収の仕事の手助けをさせられた。辛抱したのは実の両親だとおもっていたからだ。だが、馬や牛のように働かされたのは、中学校を卒業したときに理解した。あのくそっタレ養父母は初めて打ち明けたからだ。おれと竜一は捨て子だったのだ。それもよりによって、あのくそっタレ養父母の家の玄関に捨てられていた。くそっタレたちが内緒にしたのは、おれたち二人をこき使う、ただそのためだけだった。
しかしくそ暑い。早く黒焦げになったあの二人に会わせろ。涙が涸れてしまう。あのくそっタレの二人のなれの果てを目にしたときに流す涙も残しておかなければならない。
「あんたら兄弟は大変仲が良くてしかも中学校までの学校の成績は抜群だった、と近所では評判たい。東京に出たのは去年の夏らしかね。なぜあんただけが?」
「男は汗水垂らして働くものだと。勉強なんぞ必要ない、と。しかしせめて弟だけでも大学に、と言って、兄が両親を説得してくれたんです。兄は僕の分も働く、と。おかげで、つい先日、大検の試験を受けることができました」
「なるほど。弟思いの立派なお兄さんやったんやね」
部屋のなかを歩きながら、男が感心したようにまた大きくうなずいた。
「ところで、警察ちゅうのはいろいろな角度から考える所で、ね。もしかしたら今度の一件が、事故ではなく事件の可能性はないか、とか、ね……」
男の言葉に、一瞬、背筋の汗が引いた。なにを言いたい。竜一の身代わりに不審な点でも見つかったのだろうか。
「これも近所から聞いたんやが、ご両親はだいぶお金を貯めていたらしいね。しかし、きょうまでの調べでは、そんな痕跡はどこにも見当たらん。銀行にも郵便局にもどこにも、ね」
あのくそっタレの守銭奴たちは、居間の床下にしっかりと金を貯め込んでいた。捨て子のおまえらを育ててやった。しかしむこう三年間これまでどおりに働いたら、おまえらの好きにさせてやる――。中学校を卒業したとき、くそっタレたちはそう言った。しかしあいつらには端からそんな気持ちはなかった。竜二、おれは残る。おまえは東京に行け。くそっタレに捨て子だと教えられた夜、竜一から今度の計画を打ち明けられた。
「両親は、銀行を毛嫌いし、僕らの知らない家のどこかに隠しとりましたから、きっと火事で灰になったとでは……」
三千万はある、と竜一は言っていた。金は竜一の手に握られて海峡を渡った。それがおれたち二人の、これからの人生の元手になる。
「そういうことか」
男が納得したようにうなずき、質問の有無をもう一人の刑事に確かめた。ペンを置き、刑事がやるせないような顔をして首を小さく振った。
「嫌なことをいろいろ訊いたけど、これも仕事だ。悪くおもわんでくれ」
二人が部屋を出て行った。
しばらくして男が呼びにきた。パトカーに乗せられる。
「先に言っておくが、遺体の損傷が激しい。あるいは嘔吐をもよおすかもしれんが、ご両親とお兄さんの成仏のためだとおもって辛抱してください」
そう言ったきり、男が口を噤んだ。さっきペンを走らせていた刑事と目が合った。それがくせであるかのように、小さく首を振ると、刑事は視線をそらし窓の外に目をやった。
五分ほどで、病院に着いた。
白衣を着た初老の医師に案内される。階段を下りてゆくと、外のくそ暑さが嘘のようなひんやりとした冷気に包まれた。怖気なんかじゃない。確かに空気が冷たいのだ。必死に言い聞かせた。
地下一階の一番奥。医師が扉を開けた。消毒液ともホルマリンともわからぬ、病院独特の臭いが鼻をつく。
部屋のなかには、腰ぐらいの高さの、鉄骨で組まれたベッドが五つ置かれていた。内一つは空で、他の四つには白い布が被せられている。
竜一は死んだ……。ふたたび目に涙があふれてきた。
「じゃ、こっちに来て」
医師が、慣れた、感情のこもらない事務的な声で言うと、一番手前のベッドの白布を指先でつまみ上げた。
異臭とドライアイスの冷気。
目にした瞬間、しゃがみこんだ。胃のなかの物が逆流する。床を汚した。刑事が背中を優しくさすってくれた。
「気を確かに。誰でも皆そうなります」
しばらくじっとして、吐き気がおさまるのを待った。
耳元で竜一の声が聞こえた。だらしがないぞ、竜二。あれほどくそっタレのくたばるのを待ち望んだじゃないか。
ゆっくりと立ち上がる。もう一度、目をやった。今度は視線をそらさなかった。吐き気もない。
焼け焦げて黒くただれた顔。まるで写真で見た、あのエジプトのミイラの顔に煤を塗りたくったような面相だ。頬骨の出張り具合。顎の線。くそっタレの養父。間違いない。
「父です」
うなだれて、やっとのおもいを装って一言絞り出した。
医師がうなずく。そして次のベッド。今度は最初から正視できた。くそっタレの養母。
「あと一人やからな」
刑事が耳元でささやく。
竜一は死んだ……。言い聞かせるのもこれで最後だ。最後の涙。竜一、おれは完璧に役割をこなしている。もうすぐだ。もうあと数分も辛抱すれば、自由になれる。この十八年間、縛りつづけられてきたすべてのことから解放される……。
見た瞬間、号泣できた。刑事の胸にしなだれかかる。
「これで最後だ。間違いないね」
促されて、もう一度目をやった。
いいか、竜二。右の腰の横を見ろ。十円ほどの大きさのえぐれた跡。ジョン・ドゥは小さいころに竹が突き刺さって大怪我をしている。
ジョン・ドゥ。竜一はそう言った。おれたち兄弟の道筋をつけてくれた、ジョン・ドゥ。おれたちは、おまえの死を決して無駄にはしない。おれたち兄弟がこれから歩む道を、じっとあの世から見つめていろ、ジョン・ドゥ。おれたちが手に入れるものは、ジョン・ドゥ、すべておまえと共有する。
「小さいとき、右の腰の横に竹の切り株が突き刺さったことがあります……」
言葉に、医師と刑事が顔を見合わせた。
白布をめくって点検した医師が、刑事にうなずいている。
「ご苦労さんやった」
刑事に肩をたたかれて、霊安室を出た。
ドアの閉まる音。終わった。いや、ドアの音は、これからはじまるおれと竜一の祝福の音だ。
竜一、すべてが完璧だ。竜一、おれを誉めてくれ。おれはおれの役割を立派に果たしたぞ……。
おれたち兄弟の暑くて長かった十八歳の夏。この街でのおれたちの想い出は、すべてこれで葬り去った。
あとは美佐をあそこから救い出すだけだ。
* * *
※続きは書籍『竜の道』でお楽しみください。