ヨーロッパやアメリカの一部の州では、すでに廃止されている死刑制度。一方、日本はその流れに逆行するかのように、いまだ死刑制度が適用されている。なぜ日本人は死刑を「是」とするのか? 戦後のおもな死刑判決事件を振り返りながら、時代によって大きく変わる「死刑基準」について考察した『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』から一部をご紹介しよう。
免田事件(昭和23年)
死刑判決を受け、それが確定し、いつ死刑執行になるかもしれないという状況の中で、再審で冤罪が晴れた死刑冤罪事件(冤罪の冤とは濡れ衣のことで、冤罪は無実の罪のこと)。
冤罪犠牲者となった免田栄が疑いをかけられた事件は、熊本県人吉市の祈祷師一家4人殺傷事件(夫婦死亡、子供2人が重傷)で、凶器に鉈が用いられた(らしい)ことから、近隣で植林の仕事に従事する免田青年が犯人として逮捕された。取り調べの結果、一家殺傷事件を自白したとされ、死刑判決を受けて確定した。
再審で冤罪が晴れたのは、事件から34年後のことだった。
この事件では、捜査段階での自白以外有力な客観的証拠は何もなかった。そして、有罪の根拠とされた自白も、強要によって得られたものだった。
財田川事件(昭和25年)
戦後2件目となる死刑冤罪事件。そのうえ、冤罪で死刑に追いやられたのは、少年(19歳)だった。
これは、香川県の財田村(琴平の奥の山間の村)で起きた強盗殺人事件で、粗末な一軒家に一人で暮らしていた老人(男性)が殺されて現金が奪われたもの。
当時は、少年事件であっても、強盗殺人では被害者一人で死刑となることがあった。そのため、冤罪のうえに死刑が乗っかり、「少年死刑冤罪」となってしまった日本裁判史上極めて特異な例。
この事件で犯人として逮捕され、死刑判決を受けた少年の冤罪が晴れたのは、事件から34年後のことだった(少年はすでに53歳になっていた)。
再審=無罪までに気の遠くなるような時間がかかるのは、何もこの事件に限ったことではないが、この事件の場合は、その間、再審の申し立てがかかっていない期間だけでも11年を数えた。これだけの年月に何も動きがなければ、その間に死刑が執行されてしまうのが通常であるが、この事件で死刑が執行されなかったのには特別な舞台裏があった。
死刑の執行命令は法務大臣が下すが、そのためには、一件記録(捜査記録、公判記録)がすべて整っていなければならない。そうでないと、検察では法務大臣に執行命令の起案(死刑執行起案書)を上げることができない。ところが、この事件ではその記録がいつの間にかなくなっていた。
なぜなくなっていたのかは、はっきりしないが、この件を取り巻くいろいろな周辺事情から推すと、冤罪ではないかと気づいた事件の担当検事が、死刑が執行されないように一件記録を隠し持っていたのではないかと現在では見られている。
さらに、この事件が再審=無罪となったのにも、特別ないきさつがあった。再審を求める運動は、弁護士会や支援団体など外部から起こるのが常だが、この場合は死刑囚をサポートする動きはなく、それは裁判所内部から神がかり的に起きた。
当の死刑囚は、死刑確定後しばらくして当時の地裁の裁判長宛てに冤罪を訴える手紙を出していたが、それは正式の申立書とは到底見られないようなものだったため、私信扱いで裁判所の机の中にそのまま放置されていた。ところが、数年後にこの手紙が偶然、後任の裁判長の目にとまる。
法律上は、このような手紙に調査を促す効力はないが、その裁判長が「念のため」と思って個人的に事件を再調査し始めたのが発端だった。調査の過程で、裁判長は「これは冤罪だ」と直感する。そして、その結果、その裁判長はどうしたかというと、裁判官を辞めてその死刑囚の弁護人になったのだった。
財田川事件は、こうやって、奇跡的に勝ち取られた冤罪だった。
この事件の冤罪の原因は何だったかというと、少年の家から押収された物証の評価に問題があった(押収されたズボンには血痕が付着していたが、後になって被告人の兄のものだった疑いが出てきた)ことと、それに加えてやはり、自白の強要だった。
島田事件(昭和29年)
犠牲者となったM青年の冤罪が晴れたのは、逮捕から34年後、平成に入ってからのことだった。
静岡県島田市内で、大井川の蓬莱橋(明治初期に大井川に架けられた世界最長の木造橋)近くのお寺の幼稚園から女児が連れ去られ、蓬莱橋を渡った対岸の地獄沢というところの雑木林で絞殺死体となって見つかった。
島田市の出身で、当時、横浜、平塚、三島、沼津、静岡、岐阜などを放浪していたMは、事件当時島田市を徘徊していたと見られて、賽銭泥棒の容疑で逮捕され、取り調べを受けた。その取り調べで女児誘拐殺人を自白したとして起訴される。審理の結果、死刑判決を受け、その死刑判決は確定してしまう。
この事件でも、捜査段階の自白のほかに有力な客観的証拠はなく、その自白も、強要によって得られたものだった。
松山事件(昭和30年)
これも死刑冤罪事件。しかも、捜査側の証拠のねつ造によって死刑にまで追いやられた事件だった。
宮城県の仙台近郊の松山町で農家が全焼、夫婦と子供2人が焼死体で見つかるという事件が起きたが、焼死体は全部、頭を割られていた(一家4人皆殺し事件)。捜査本部は地元の素行不良者を洗う中で、事件直後に東京に働きに出たS青年を逮捕する。事件後上京したのを、高飛びしようとしたと見たのだ。
裁判では、一審、二審とも死刑。最高裁でも上告は棄却されて、Sの死刑は確定した。
この事件では、Sの家から押収した布団カバーの血痕という客観的証拠があった。証拠物として法廷に提出された布団カバーには、実際に、八十数カ所にわたって細かい血痕が付着していた。そして、鑑定の結果、これは人血であり被害者の血液型と一致するとされていた(返り血を浴びたSの頭髪から付着したものと見られた)。
しかし、Sは、冤罪を訴えて再審を申し立てる。再審で争点となったのは、布団カバーの血痕について、押収時に捜査官が撮影した写真には布団カバーには黒いシミのようなものが1点だけ写っているにすぎなかったこと。この点をめぐって、検察・弁護双方の間で「血痕の1点にだけピントを合わせて撮影したからその1点しか写らなかった」「それならネガを出せ」「ネガは紛失した」などのやり取りが行われ、最後には、裁判所は「当初、血痕は付着していなかった蓋然性が高い。本人以外の者がつけた可能性がある」という判断を下して、無罪を言い渡した。
Sの冤罪が晴れたのは、事件から28年後のことだった。
前に出てきた財田川事件(昭和25年)は、戦後裁判史上に残る「少年死刑冤罪」だったが、こちらは、さらに異様さの際立つ「ねつ造死刑冤罪」。
なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか
ヨーロッパやアメリカの一部の州では、すでに廃止されている死刑制度。一方、日本はその流れに逆行するかのように、いまだ死刑制度が適用されている。なぜ日本人は死刑を「是」とするのか? 戦後のおもな死刑判決事件を振り返りながら、時代によって大きく変わる「死刑基準」について考察した『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』から一部をご紹介しよう。