江戸の名料亭「八百善」とその主人、福田屋善四郎を描いた、直木賞作家・松井今朝子さんの『料理通異聞』。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される本作の「舞台裏」を、著者みずから丹念につづったのが、『江戸文化の華 料亭・八百善を追う』です。今も残る古文書、史料の数々を読み解きながら、善四郎の生涯に肉薄していく過程はスリリングそのもの。歴史好きなら必読の本書より、一部をご紹介します。
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「レシピ本」が流行った江戸時代
全盛期の八百善を伝えるものとして、次のエピソードを忘れるわけにはいかない。
幕府の機密文書を扱っていた船橋勘左衛門という人物が、八百善の料理切手をもらった時のことだ。切手は今日の商品券に相当し、いわば一流レストランのお食事券をギフトされたかたちである。
彼はそれを家来に与え、家来ふたりが八百善に行って満腹するまで食べたが、店側はとても切手代分は出し切れないとして、帰りに籠いっぱいの料理のお土産と十五両もの現金を手渡した。恐らくその切手は五十両ほどの値打ちがあったのではないか、という話である。
一両は今だと十万円くらいだから、ギフトの額にも驚くが、八百善がいかに高級料理店だったかを裏付ける話でもあろう。
このエピソードを紹介する『五月雨草紙』は幕末に往時を偲んで書かれた随筆記録で、これを「文政の末頃」すなわち一八二〇年代後半の話としている。
船橋家の家来たちは一体どんな豪華な料理を食べたのか、それを意外と明らかにしてくれる史料があった。その名もずばり『料理通』といい、当時の八百善主人、四代目栗山善四郎が自ら書いて出版した料理本だ。
ところで現代はいわゆるレシピ本が大ブームだが、料理の本はこの国で木版印刷が民間に広まった安土桃山時代から江戸初期にかけてはやばやと出現し、江戸時代を通じて二百種近くが出版されている。そこに書かれた食材と調理法や用語といったものが今日に定着して、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」のベースになったのである。
料理本は江戸文化の成熟と爛熟ぶりを伝える絶好の史料なのだが、中にも大坂の版元で天明二年(一七八二)に刊行された『豆腐百珍』は名著として今日にもよく知られている。豆腐という淡泊な味わいの食材に限定して、その調理法を百通り紹介するこの画期的な料理本は大好評を博して広く流布した。
以来、続編が次々と刊行されたばかりでなく、卵や鯛や甘薯(サツマイモ)や蒟蒻等々のバリエーションが生まれて一大ブームを巻き起こし、「百珍物」とでもいうべきジャンルを形成している。
スターが集結した八百善の料理本
料理本は大概匿名で書かれて著者不明のケースが多々あるなかで、『料理通』は初篇から「八百善しるす」と前書きされ、続く二、三、四篇は表紙見返しに堂々と「八百善著」の文字が刷られている。それだけでも画期的な料理本といっていいのかもしれない。
初篇の刊行は文政五年(一八二二)で、二篇は文政八年、三篇が同十二年、そこから少し間を置いて、四篇が天保六年(一八三五)に出版され、先に述べた船橋家の家来が食べた時期がちょうどこの間に重なっている。それにしても長期にわたった刊行だが、どうやら八百善側は別に最初からシリーズにする予定ではなかったようである。
著者は二篇の前書きで、「先の年、書肆甘泉堂主人が求めに否み難く拙き献立の一書を桜木にしが、幸に世に行れしとて頻に嗣編の薦ありしも、生活のいとまなくて一歳ふたとせと過ぎたりし」と記している。要は出版社の求めに応じて執筆した初篇が幸い世間に売れたので、さかんに続篇を勧められたものの、書く暇がずっとなかったと言い訳したのである。
初篇に引き続いて序文を引き受けた亀田鵬斎もまた「索者如林。版漸致刓裂(もとむるものははやしのごとし。はんようやくがんれつをいたす)」と書き、漢文調の大げさな表現ながら、求める人があまりにも多かったので何度も使われた版木が削れて裂けたというふうに、初篇の売れ行きが非常に好調だったことを証明している。
この亀田鵬斎は当時の書家であり且つ民間の儒学者ながら、一時は旗本や御家人の多くが門下となって影響を受けたとされる当時の有名な文化人である。こうした人物が序文を引き受けたことの意味は大きかったはずだ。
もっとも『料理通』に関わった有名人は彼ばかりではなかった。
初篇は見返しに酒井抱一がカット風の絵を描き、亀田鵬斎のあとに大田蜀山人が序文を寄せ、谷文晁のカット風の挿絵に続いて鍬形蕙齋が得意の俯瞰図を見開き二面で展開している。
二篇では見開きの挿絵を蕙斎に代わって葛飾北斎が手がけ、続く見開きには蜀山人の狂歌と酒井抱一の絵がコラボされ、さらに谷文晁と渓斎英泉の絵が続く。こうした絵師のラインアップは今日に素晴らしく豪華に感じられるが、当時でも話題の的だったのではなかろうか。
さらに驚くことに、初篇を売りだす際の広告チラシのコピーを引き受けたのは『偐紫田舎源氏』の作者として有名な柳亭種彦で、何やら化政期の江戸文化人を総動員した観がある。
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