江戸の名料亭「八百善」とその主人、福田屋善四郎を描いた、直木賞作家・松井今朝子さんの『料理通異聞』。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される本作の「舞台裏」を、著者みずから丹念につづったのが、『江戸文化の華 料亭・八百善を追う』です。今も残る古文書、史料の数々を読み解きながら、善四郎の生涯に肉薄していく過程はスリリングそのもの。歴史好きなら必読の本書より、一部をご紹介します。
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「鶴」は日本ならではの食材
現代の日本ではもう食材にならない生き物で、私が一度味わってみたかったと思うのは何を隠そう、鶴である。
「鶴は千年」の文句は『淮南子』の「鶴寿千歳」から来ていて、中国では紀元前から霊鳥とされ、あれだけ何でも調理してしまう国が、どうやら食用にしなかったらしい。日本では平安時代から調理された記録が残っているそうで、ずいぶん野蛮な国と思われていたかもしれない。食文化の相違が互いの忌避感を招きやすいのは、昨今の捕鯨やイルカ漁の例でわかるというものだ。
鶴の食用も中国思想の影響下で一時タブーになったとはいえ、日本では戦国時代以降、時の権力者や上流階級の食卓に欠かせない高級食材としてむしろ珍重されるに至った。
元禄時代の名優、坂田藤十郎は大津で鶴を一羽買ってふだん飲むお吸い物にしたという話が『西鶴置土産』に紹介され、その鶴の値は「銀十枚」とある。
ナマコ形をした丁銀は一枚およそ四十三匁で、その十倍は金にすると七両強。円に換算したら七十万以上の食材をふだん使いしたのだから、さすがにスーパースターらしいエピソードだ。しかしながら、これは元禄の世だから芸能人でも出来た贅沢だったに違いない。
吉宗の時代(一七一六~四五)になると、「公事方御定書」によって鶴は庶民の捕獲がおおやけに禁じられてしまった。にもかかわらず、肉はその後も盛んに流通していたようである。一つは松前藩に代表される北方諸藩の重要な輸出品としてであり、それらはもっぱら生きた姿のまま塩漬けにした「塩鶴」のかたちで上方や江戸の都市圏にもたらされていた。
生肉のほうはどうかといえば、これも上流階級は口にする機会がわりあい多かったようである。将軍家は冬場に江戸へ渡ってきた鶴を鷹狩りで仕留め、最初の獲物を「初鶴」として宮中に献上した。かくして宮中では、ふつう鯉を使う包丁式の鶴バージョンも生まれている。
将軍家に倣って、諸藩の大名は宮中のみならず将軍家やそれに列なる御三卿ら高位の諸侯にも献上し、贈答し合ったので、冬場の江戸には大量の鶴の肉が行き交っていたとおぼしい。狩はひと冬に一度ならず行われただろうから、その一部が民間に流れ出たとしてもふしぎはなかった。
「鶴」はどんな味なのか?
八百善の主人四代目善四郎が著した『料理通』の「会席すまし吸物の部」で春の筆頭に堂々と記された「つる」の具は、季節からすると「塩鶴」であった公算が高い。ただし、それが北方諸藩からの輸入物だったのか、あるいは江戸近郊で狩られた鶴の生肉を自家製で塩漬けにしたものだったのかは不明だ。
いずれにしろ、八百善には生の鶴を捌くチャンスが大いにあったのである。十一代将軍家斉は三河島の狩場からの帰り道に、真崎稲荷(今の浅草橋場)付近にあった八百善の別荘へ立ち寄って、自ら仕留めた三羽の鶴を持ち込んだという驚くべき事例が知られている。
その三羽の鶴は酒井抱一の筆で「鶴掛の松」(58頁図版)と呼ばれる一幅の画として今日に残された。抱一には後に詳しく触れるとして、ここでは八百善が将軍の御成りという江戸の町家にはちょっとあり得ないような栄誉に輝いた料亭だったことを喚起するに止めておく。
ところで抱一の絵に描かれたのは私たちが鶴と聞いて真っ先にイメージするようなタンチョウヅルではなく、体が灰色のナベヅルだ。
元禄に刊行された食物事典『本朝食鑑』には「黒鶴」と書かれ、賞味されるのはたいてい黒鶴、白鶴、真鶴で、中でも黒鶴が最も美味とされている。丹頂鶴の肉は硬くてまずいので、観賞用に飼われるだけとの記述もある。
ちなみに白鶴とは全身純白で風切り羽だけが黒いソデグロヅル、真鶴は顔と脚の赤さが目立つマナヅルで、マナは副食物を意味する古語、ナベヅルは文字通り鍋鶴だから、両方とも早くに食用の認識があったものとおぼしい。
『本朝食鑑』にはまた鶴の血や肉は他の鳥と異なり、他の鳥だと血は生臭くてとても啜ることはできないが、鶴は血と肉が香気に満ちて、しかも大変な薬効があると記されている。それらは千年の齢を保つ霊鳥のイメージが反映していたのだとしても、実に賞味意欲をそそられる文面ではないか。
ともあれ仏教の影響下で肉食がタブー視されていたはずの当時において、野鳥は魚と並んで日本食の貴重な動物性タンパク源、カルシウム源だったことは間違いない。もっとも、肉食の禁が実際のところ、どこまでしっかり守られていたかは少し疑ってかかる必要がありそうだ。
江戸文化の華 料亭・八百善を追う
江戸の名料亭「八百善」とその主人、福田屋善四郎を描いた、直木賞作家・松井今朝子さんの『料理通異聞』。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される本作の「舞台裏」を、著者みずから丹念につづったのが、『江戸文化の華 料亭・八百善を追う』です。今も残る古文書、史料の数々を読み解きながら、善四郎の生涯に肉薄していく過程はスリリングそのもの。歴史好きなら必読の本書より、一部をご紹介します。