江戸の名料亭「八百善」とその主人、福田屋善四郎を描いた、直木賞作家・松井今朝子さんの『料理通異聞』。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される本作の「舞台裏」を、著者みずから丹念につづったのが、『江戸文化の華 料亭・八百善を追う』です。今も残る古文書、史料の数々を読み解きながら、善四郎の生涯に肉薄していく過程はスリリングそのもの。歴史好きなら必読の本書より、一部をご紹介します。
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今も残る「3冊の旅行記」
まずは古い寛政元年(一七八九)の旅日記のほうから見ておこう。この年、善四郎はまだ二十二歳の若盛りで、三月二十一日から約二カ月に及ぶ長期の団体旅行に参加した。毎日ほぼ五ツ前(午前八時)に出発、七ツ半過ぎ(午後五時)には次の宿へ到着の予定で、各地の寺社名所旧跡を見歩くハードなスケジュールをこなしたのである。
一行は伊勢参りが主目的だったようで、伊勢から大和路に入って奈良の諸寺院に参詣。吉野山にも登り、高野山まで訪れた上で大坂入りしている。道頓堀で人形芝居を見たりしただけであっさり大坂を離れて伏見に向かい、宇治の平等院を皮切りに京都観光を開始。それは意外なほど今日と共通する名所巡りながら、なまじ京都に土地勘があると目を疑うばかりの過密スケジュールであった。
四月二十九日は南禅寺、黒谷、吉田、北野、金閣寺、御所と仙洞御所、二条城、相国寺、東寺、神泉苑などを回って、先斗町や四条河原で遊女見物。翌日は嵐山の天龍寺、祇王寺、小倉山の時雨亭などを見て回った上で、愛宕山にも登って月輪寺に参詣。
さらに翌五月一日は下鴨、上賀茂、貴船、鞍馬、八瀬、大原と巡り歩いた末に比叡山を登って延暦寺へ。そこから往路とは逆方向に下山して日吉大社を訪れ、近江の坂本に投宿した。
観光バスでも一日で押さえるのは困難なスポットを、彼らが歩くかせいぜい駕籠に乗るかして全部回ったというのはにわかに信じがたい気がする。さりとて日記スタイルで嘘を書くのは存外難しいし、また嘘を書く必要があったとも考えにくい。事実だとしたら、当時の人びとは私たちの想像を絶する健脚と体力に恵まれていたというわけである。
往路は東海道で伊勢参り、復路は中山道を辿って善光寺参りまでセットになったこの長旅は、今日の世界一周旅行にも匹敵するだろうか。一行はここぞとばかりに各地の名所を欲張りに観光し、善四郎の日記はそれらの場所を書き留めるだけで精いっぱいといったところ。
その日の天候と出立帰宿の時刻、舟渡し賃や川越し銭などの細かい金額が意外にきっちり書き留めてあるのは、当時まだそれほど一般的でなかった旅行情報を持ち帰るつもりだったのだろうか。残念ながらこの日記は食関連も、たとえば安倍川で「五文とり餅名物也」と記した程度に過ぎない。
名物を食べ歩いた善四郎
これより十四年後の享和三年(一八〇三)、善四郎が三十代半ばでした旅行の記録は、手を入れて清書した写本まであるのだから、広く読まれることを前提としていたのだろう。
今度の旅行も三月半ばに出発し、五月下旬に帰江するまで前回とほぼ同様のコースを辿りながら、さらに四国の金比羅参りを追加するハードスケジュールだった。品川まで見送ってくれた人が百五十人もいたというビッグイベントである。旅日記は前回より詳細で、食関連の記述も相当にある。
東海道の吉原で昼食を取った際には肴の値段に驚いており、田子の浦辺の河岸を見て回ったのだろうか「鯛壱枚、まくろ壱本、大はた壱本、右三本にて代物七百文也。真に徳用の喰い物也」と記した。今なら全部で二万円もしない安さだから、ここから仕入れてなんとか江戸に運ばせる手だてを思案したかもしれない。
ちなみに善四郎はこの旅の途中でわざわざ逗子の小坪に立ち寄って、草柳新左衛門なる人物を訪れた記述が日記に見える。それに早くに着目した八百善の九代目夫人、故栗山恵津子さんは自ら小坪の地を訪れ、草柳家が明治まで代々続く魚類専門の回船の元締めだったことを突き止めた上で、八百善が活魚を仕入れる際の世話になった人物だろうと推測された。
その土地ならではの食材はむろん海ばかりでなく山にもあるから、秋葉山道では「椎茸の吸物」を名物として賞味したり、「手打そば」を食べたりしている。しかしながら、これまた残念なことに現地の食べものを善四郎がどう感じたかはほとんど書かれておらず、尾張の甚目寺観音へ参詣した折に食べた田楽の豆腐が「石のごとし」と記したのは例外といえる。
ただ、安倍川餅や桑名の蛤など今でもよく知られる名物は多めに食べているところを見れば、名物に旨い物なしといった感覚が幸いまだなかったのだろう。各地で決まって名物餅やそばを食べているような気がするのは、地方の食生活があまり豊かでなかった証拠だろうか、と思ったりもする。
四月二十九日には四国の丸亀から備前に渡り、そこへ来合わせた「料舟」から大鯛二枚をそれぞれ四百六十文で買い受け、「右之鯛料理いたし、十六人にてたくさんに喰」とあるのは、もしかしたら自分たちで料理したのかもしれない。「料舟」は料理を提供する料理船ではなく、「漁舟」の宛字とする見方もあるように思う。
江戸文化の華 料亭・八百善を追う
江戸の名料亭「八百善」とその主人、福田屋善四郎を描いた、直木賞作家・松井今朝子さんの『料理通異聞』。「料理を題材にした時代小説の最高傑作」とも評される本作の「舞台裏」を、著者みずから丹念につづったのが、『江戸文化の華 料亭・八百善を追う』です。今も残る古文書、史料の数々を読み解きながら、善四郎の生涯に肉薄していく過程はスリリングそのもの。歴史好きなら必読の本書より、一部をご紹介します。