男女が認め合う社会になるには、“性について語る言葉”を親が持つということも重要のようです。古い価値観に違和感を覚える世代には、近くにいいモデルがなく難儀なことですが、自分の親世代と違う行動を、意識してする必要もあるのかもしれません。依存症の話から見えてくる社会の問題点と解決のカギ。
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不倫を繰り返して離婚、風俗通いで多額の借金、職場トイレでの自慰行為がバレて解雇……。何度も損失を被りながら、強迫的な性行動を繰り返すセックス依存症。実は性欲だけの問題ではなく、脳が「やめたくても、やめられない」状態になることに加え、支配欲や承認欲求、過去の性被害、「経験人数が多いほうが偉い」といった〈男らしさの呪い〉などが深く関わっている。
2000人以上の性依存症者と向き合ってきた斉藤章佳さんの新刊『セックス依存症』(幻冬舎新書)から、その一部を公開します。
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日本は「男尊女卑依存症」社会
達成感や支配的欲求、優越感、女性を性のはけ口やモノ以下とみなす……これらの傾向は、性依存症の人にも多く見られる共通点です。そもそも彼らのなかには、セックスそのものが好きなのではなく、支配的な関係性、ねじれた承認欲求、偽りの自己肯定感、いじめと共通する優越感や所有欲から、繰り返し不特定多数と性関係を持ってしまう人も多く見られます。
とくに男性が陥る性依存症の背景には、日本にいまだ色濃く残る男尊女卑的な価値観が根強く影響していると私は考えています。
「たくさんの女性とセックスしているほうが男として偉い」
「街でナンパしてセックスしなければ、男がすたる」
「据え膳食わぬは男の恥」
こういった価値観のもと、問題行動を堂々と行えたほうが「より男らしい」とみなされることがいまだにあります。そんな彼らの考えの根底にあるのは、性欲ではなく「男尊女卑」という認知の歪みです。男尊女卑の考えは、なにも男性だけに内在するものではありません。女性側にも根深く内面化されています。
性犯罪者はしばしば、「自分がやったことで、相手を女として見てやったんだ」などと自分の行為を正当化する発言をします。これは明らかな認知の歪みです。
そして、被害者側からしたらとんでもない話ですが、性被害に遭った女性のなかにも「男性の性欲は抑えられないもの」「性被害に遭ったのは、自分にも落ち度があったからなんだ」など、「自分になにか非があったんじゃないか」と自責してしまう人が多くいるのです。このように被害者が自責してしまう風潮は、加害者の責任を性欲の問題に矮小化してしまいますし、加害者にとってはこの上なく都合の良いものでもあります。
そして「自分が悪かったんだ」という自責の念から、性被害に遭った女性が自暴自棄になって自傷行為的に不特定多数と性関係を持ち、やがて性依存症に陥ってしまうことは、これまでにも見てきたとおりです。
繰り返しになりますが、性依存症は性欲の問題ではありません。そしてその根底には「男尊女卑」という古い価値観が横たわっているようにも思えてなりません。
これは私の造語ですが、みなが気づかないうちに「男尊女卑依存症」に陥っているのです。性依存症は男尊女卑社会の悪しき産物です。そして私たちひとりひとりがこの歪んだ価値観を認識して、勇気を持って手放さない限り、性依存症から解放されることはないと思っています。
求められるのは家庭での性教育
男尊女卑の価値観がどこで最初にインストールされるかと考えると、やはり行き着くのが「家庭」です。子どものころから家庭のなかで植えつけられた「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という教えは、「男尊女卑の種」として学校で芽を出して、メディアから水を与えられ、大学を卒業するころには社会によって花開きます。とくに、家庭内では同性の親からジェンダーバイアスを植えつけられるケースが多いと感じています。そのことに親は自覚的になるべきです。
性に対する刷り込みも家庭でなされます。親が性を「汚いもの」とみなす家庭での過剰な刷り込みが、性的嫌悪を誘発し、さまざまな性依存症の遠因となります。この性的嫌悪は、とくに家庭内の性教育の欠如や誤学習によって引き起こされるものです。親が性に対して極端に潔癖で、それを「汚いもの」「恥ずかしい行為」とラベリングし、その親の態度や価値観が子どもに連鎖していく光景を、加害者臨床の現場ではたびたびエピソードとして耳にしてきました。
以前、性的嫌悪が強い家庭で育った盗撮の当事者に、風俗に行った経験の有無を尋ねたところ、「風俗は汚くて行きたくない」と答えました。私としては、犯罪である盗撮のほうがよっぽど恥ずべき行為だと思うのですが、彼の価値観のなかでは明確に分離されています。このような「風俗は汚いもの」発言は、性依存症の治療の現場ではよく出てきます。
少し話がそれましたが、性教育と聞くと、一般の人はセックスや生殖器、生理のことを連想し、それについてはどうしても口が重くなりがちです。「そのうち学校でも教えてくれるだろう」「そんなものは自然と覚える」と思っている人もいるかもしれません。
しかし今の日本の学校の保健体育の授業では、月経や射精などの第二次性徴期や身体の器官については触れますが、受精のしくみや性行為についてはほとんど取り扱っていません。
2018年には、東京都足立区の中学校が「性交」「避妊」といった言葉を使って授業をしたことを都議が「不適切な性教育」と問題視して波紋を広げるなど、反対派も根強くいます。ピルや避妊、LGBTQ+など性の多様性まで積極的に教える海外の性教育事情に比べて、日本はかなり遅れているのが現状です。
学校や親がことさらに教えなくても、子どもたちは性の知識を友達との会話や交際相手から「自然と」得ることもあるでしょう。しかしその知識のもととなる情報がどこからくるかと考えると、たいていはアダルトビデオやネットの動画コンテンツです。
当然ながらそれらは、主に異性愛者の成人男性の興奮を喚起するために作られているので、その大部分は妄想やファンタジーです。内容がきわどいだけでなく、極めて暴力的な内容や女性をモノのように扱うものも含まれています。
また、暴力的とまで言えないにせよ、プレイそのものが男性のひとりよがりな快楽に終始している場合も多々あります。これらのアダルトコンテンツを、まだ正しい知識のない子どもが教科書代わりに手にすると、フィクションと現実をごっちゃにして、歪んだ価値観が醸成されてしまいます。
父親が性について子どもに語る言葉を持っていない
また、父親と母親では、性教育に関わる「格差」があるようにも思えます。
私の母親は看護師ですが、日ごろから「避妊はしっかりしなさいよ!」「コンドームをつけない男は最低!」と家庭内でもざっくばらんに話してくれる人でした。また他の家庭でも、母親が年ごろの娘に対して生理用品の扱い方を教えるなど、母親が性教育に携わる機会は少なくありません。
しかし日本の父親は、性について子どもと語る言語やボキャブラリーを持ち合わせていません。自分自身が父親から性についてなにも聞いたことのないまま、大人になった男性も多いと思います。
私もそのひとりです。小学生のふたりの男児、そしてひとりの女児と3人の子どもを持つ父親なのですが、やはり日々の生活では「父親として、性についてどう伝えていこうか」と立ち止まることが往々にしてあります。
これは先日のこと。上の息子がお気に入りの振動するハムスターのおもちゃがあるのですが、彼がそれを股間に当てて「パパ、なんでこうすると気持ちいいの?」と聞いてきたのです。もちろん彼は、それを性的なことと思ったわけではなく、純粋な質問として私に投げかけてきたのですが、いざ息子からそう問われると、私も答えに窮してしまいました。
我が家ではまだ子どもにはスマホは与えていませんが、子どもたちはタブレットでさかんにYouTubeを見ています。もちろん保護者による使用制限もしていますが、彼らもあと何年もしないうちにスマホを使うでしょうし、おのずとさまざまな情報やコンテンツに触れることになります。
私自身は、やみくもに「ダメ」と禁止するのではなく、アダルトコンテンツはそのリスクを含めて正しく知ることで、ゆくゆくは子ども自身が「見る・見ない」の判断ができるようになればと考えています。自分自身で情報を選択する力を身につけていってほしいのです。
いくら大人とはいえ、自分が教わったことのないものは子どもに正しく教えられません。今の30代から50代の子育て世代も、子どものときに親からきちんと性について教えてもらったことがない人がほとんどです。
しかし、正しい性の情報を学ぶのに年齢は関係ありません。子どもたちのためにも、大人は「性にまつわることは恥ずかしいこと」という考えを超えて、自らの性知識を正しくアップデートさせることが喫緊の課題なのです。今、最も性教育が必要なのは私も含めた親世代なのかもしれません。
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続きは幻冬舎新書『セックス依存症』をご覧ください。
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