五輪がはじまった。千駄ヶ谷のオリンピックスタジアムなら、荻窪からはほんの10キロで行ける距離だが、わたしの生活自体この街からほぼ外に出ていないため、同じ地平で行われているという実感がない。屋外で行われる競技のとき、観客のいない会場の外に広がる景色が映るのを見て、あぁ、この風景には見覚えがあると、行こうと思えばすぐにでも行ける場所で競技が行われていることにあらためて気がつく。
店で自分の仕入れた本に囲まれていると、扉の外で何が起こっているのかわからなくなるときがある。店はわたしにとって居心地がよく安全な場所だから、そこに居さえすれば、昨日と同じ今日がずっと続いていくような気にもなる。店を違和感ないものに仕上げていけばいくほど、周りが見えなくなるような感覚に陥るのだ。それはやはり怖いことでもある。
お客さんとの会話でオリンピックの話題になることも多いが、そんな時は様々な感情が同時に溢れ出るため、いつもはっきりとした話にはならない。選手たちのすばらしいパフォーマンスやはじける笑顔を見れば当然心を動かされるが、それを利用するものの存在もこの度はっきりとしてしまったし、何といってもこの感染状況である。世のなかに違う考えの人がいるように、自分のなかにもそれぞれ違う〈わたし〉が棲んでいて、どれか一人には決してまとまらない(念のため書いておくが、五輪はいまからでも中止した方がいいというのがわたしの考えだ)。
店に来る人にも同様の「まとまらなさ」はあるようだ。基本的にはやさしいがちょっとずるいところも時に顔をのぞかせ、その中をいつも揺らいでいるように見える。それはわたしと何ら変わるところはなく、その顔すべてがその人だから、どれか一つにまとめることはできないだろう。
緊急事態宣言下のいま、東京では競技が行われている会場には、一般の観客が立ち入ることができなくなってしまった。そこからは代わりにテレビを通じて、「感動」といった単一のメッセージだけが発せられている。ほかのことばをかき消すようなその大きな声は、個々の人が抱いているはずのまとまらない感情を見えにくくする。
本来「感動」は、それぞれの個人が勝手にするものだ。そしていま人々が見ている世界は、「感動」一色で塗り込められた単純なものではない。そうした複雑さを欠いたことばは虚ろで、ことばの抜殻にすぎないだろう。
オリンピックも政治も、それを語ることばは、ほんとうは近くにあるはずなのに、それはいつのまにか隔てられ、実体の感じられないものとなってしまった。テレビや新聞、インターネットで毎日オリンピックスタジアムの姿を目にするが、それはどこか架空の存在のようにも見え、触れることさえできないもののように思えてくる。なぜそうなってしまったのだろうか。
自分のことばを手放してはならない。たとえぎこちなくても、しっかりとした重さのあることばで語らなければならない。そうしたことばで「感動」を語るとき、その体験は本来そうであった確かなものとして、もう一度その人に近づいてくるはずだ。
今回のおすすめ本
『ぼくは川のように話す』ジョーダン・スコット・文 シドニー・スミス・絵 原田勝・訳 偕成社
言葉がいつもうまく出てこない「ぼく」の話し方が川のようだなんて、考えたことがあっただろうか。瑞々しい絵が記憶に残る、胸を打つ絵本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
○2024年11月15日(金)~ 2024年12月2日(月)Title2階ギャラリー
三好愛個展「ひとでなし」
『ひとでなし』(星野智幸著、文藝春秋刊)刊行記念
東京新聞ほかで連載された星野智幸さんの小説『ひとでなし』が、このたび、文藝春秋より単行本として刊行されました。鮮やかなカバーを飾るのは、新聞連載全416回の挿絵を担当された、三好愛さんの作品です。星野さんたってのご希望により、本書には、中面にも三好さんの挿絵がふんだんに収録されています。今回の展示では、単行本の装画、連載挿絵を多数展示のほか、描きおろしの作品も展示販売。また、本展のために三好さんが作成されたオリジナルグッズ(アクリルキーホルダー、ポストカード)も販売いたします。
※会期中、星野さんと三好さんのトークイベントも開催されます。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)
◯【お知らせ】
我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。